三内丸山遺跡

青森県青森市大字三内字丸山

三内丸山遺跡(さんないまるやまいせき)は今から約5500年〜4000年前にあった縄文時代の大集落跡です。
ここでは,定住生活の跡が確認されています。 
三内丸山遺跡はここにあります。
地図

 この遺跡の存在は江戸時代からわかっていました。東北地方を歩いて紀行文を残した管江真澄という人は土偶や土器のスケッチを描いています。
 平成4年,青森県は野球場を建設するための発掘調査を行いました。すると,予想以上の集落の規模と巨木を使った建物跡の発見により,遺跡の保存を決めました。
 三内丸山遺跡 縄文時遊館が入り口にあります。
発掘調査によって,遺跡の規模は南北600m,東西800mもあると推定されています。発掘調査の後埋め戻されています。そのため,見ることができるのは一部の保存遺構と復元建物です。遺跡のある大地には多くの樹木がありましたが,発掘のため切られました。縄文時代,この集落は多くの木々に囲まれた自然がいっぱいの森の中にあったのでしょう。
 復元(ふくげん)されているのは
竪穴住居 大型竪穴住居(たてあなじゅうきょ おおがたたてあなじゅうきょ) 大人や子どもの墓 掘立柱建物 大型掘立柱建物 など
また,次のものが展示館にあります。
縄文土器,石器,土偶(どぐう)装身具(そうしんぐ),木製の道具(掘り棒,袋状編み物,漆器(しっき)など),骨角器(こくかくき)
ヒスイや黒曜石(こくようせき)で作られたもの
 写真は縄文時代の住居として復元(ふくげん)された地面を掘って床を造った小型の竪穴(たてあな)住居です。この住居の屋根は茅葺(かやふ)きです。
 竪穴式以外に,この遺跡には平地住居,高床式(たかゆかしき)住居もあります。高床式の建物は倉庫の特徴でもありますが,夏の気候などを考えると,高床式の建物にも人が生活していたと考えられるのです。
 竪穴住居の内部は直径3m,床面積10uぐらいです。中央には炉(ろ)の跡があり,食べ物を作っていました。炉は石で囲ったり,土器を埋めたりして造られていました。
竪穴住居の屋根は写真のように樹木の皮でおおわれたものもあります。
 また,土ふきの住居も再現されています。
 竪穴の平らな床に柱を立て,木で四角い囲いを組み立てます。そこに木の枝や樹木の皮をのせて形を整えます。さらに上に土をかぶせて造ります。
この遺跡には3種類の竪穴住居が混在して建てられています。
集落の中央にある建物は共通の特徴(とくちょう)を持っています。
地面に柱穴を掘って,そこに直接木柱を建てて屋根を支えている建物です。
穴の中には写真のような木が残っていることがあります。土中の水分が豊富なことと木柱の下部が(くさ)らないようにするためにこがしてあったためくずれないで発掘(はっくつ)されることがあります。
 大型の掘立柱建物です。高床式で食べ物などの倉庫として主に使われていたのではないかと考えられています。
 遺跡内には大小様々な掘立柱建物が復元されています。
 食べ物の貯蔵には地面に掘られた大きな穴も利用していました。集落はしの森の中に貯蔵穴がいくつか設けられていました。
集落の北にある谷はゴミ捨て場として使われていました。ここからは,土器や石器,動物の骨や(ふん)も見つかりました。
集落内部の位置関係を見ると,住居,(はか),ゴミ捨て場,共用施設などが区分されています。
ゴミとして捨てられた土器などです。ゴミを分析すると当時の環境もわかってきます。また,クリやクルミ,マダイ,ブリやサバなどの魚の骨やウサギやムササビ,マガモなどの動物の骨が見つかります。近くに海もあり,魚を多くとって食料としていたと考えられます。
木の実が見つかることから,この辺り一帯は豊かな落葉広葉樹(らくようこうようじゅ)の森が広がっていたことがわかります。クリの木は建物用柱,土木用材や生活道具にも使われています。
以前,縄文時代の人々は狩猟(しゅりょう)生活をしていたため,定住していなかったという説が有力でした。
 しかし,この遺跡を調べてわかることは,定住生活の跡です。人々は食べ物が豊富なこの地に根付き,安定した生活を送っていたのではないでしょうか。
   地面に穴を掘って柱を建てた,三内丸山遺跡のシンボルともなっている大型の建物です。柱穴は6本あり,穴は直径約2m,深さ2m,穴の間隔は4.2m,この穴には直径約1mのクリの木が入っていました。
 この遺跡の特徴として,長さ約32m,幅約10m,床面積280uもある大型の竪穴住居跡が見つかっています。周りで見られる竪穴住居なら30個分に相当します。
 集落の中央付近にあることから,集会所や共同住宅,あるいは作業所ではなかったかと言われています。
 内部には石で囲まれた炉()の跡が復元されています。また,柱穴の大きさ,位置から推測される建物の規模から,2階構造の建物として復元されています。
 内部には入り口から土盛りのスロープがありますが,見学用のもので,当時の建物にはありません。
 三内丸山遺跡の盛り土からは土偶(どぐう)が1600個も見つかっています。日本の遺跡の中では最多の出土数です。ほとんどが壊されたものです。しかし,完全な形で発見されるものもあります。
 これまで日本で見つかっている土偶の多くは女性像です。男性像は見つかっていないようです。
 女性像=「母」は多産(たさん)(子どもがたくさんできること)子孫繁栄豊穣(ほうじょう)としての象徴(しょうちょう)でもあるのです。女性土偶の多くは胸やおしりが強調して表現されています。また,手や足の一部が欠けてたりすることもあります。そのため,災い防止のためや病気,けがを祈って治そうとするために作られたのではないでしょうか。
 三内丸山遺跡からは土偶の中でも最大の板状土偶が発見されています。高さ32p,頭部と胴体は90mも離れた別々の場所から発見されました。写真のように接合して展示されています。
拡大画像
    この遺跡からはヒスイで作られた装飾品や黒曜石などの石器が発掘されました。
 しかし,この地方で産出する石材ではなく,北海道,新潟県,秋田県,山形県,長野県産のものです。このことから,この時代のこととは想像できないような交流が行われていたのではないかと考えられています。   
展示品写真の掲載可否については展示館に確認をしています。転載等はしないようにお願いします。 

縄文時代後期の遺跡
大湯環状列石(おおゆかんじょうれっせき)
秋田県鹿角市十和田大湯字野中堂,字万座
地図

 青森県を南下し,十和田湖を過ぎたところに大湯環状列石とよばれるストーンサークルがあります。
 ここには道路を挟んで「野中堂環状列石」と「万座環状列石」の2つの遺跡があり,「大湯環状列石」として国の特別史跡に指定されています。これらの遺跡は縄文時代の後期に造られたものと考えられています。また,これらの遺跡からは土器,石器などが多く発掘されています。何のためのものかはっきりしませんが,「集団墓」という考え方が有力のようです。(大湯ストーンサークル館内の解説による)
 野中堂・万座環状列石とも,外帯と内帯とよばれるの二重の石列で構成されています。
   野中堂環状列石 直径44m
組石数44基
野中堂環状列石には外帯と内帯との間に 「日時計状組石」とよばれる石組みを見ることができます。立石を中心に,細長い石を放射状に並べた構造です。この形が日時計に似ているため,といわれており 「日時計状組石」とよばれています。  
  このような立石を中心に置いた石組みは万座環状列石でも見ることができ,墓として理解されています。 
 万座環状列石 直径52m
組石数48基
 
  環状列石の周りから掘立柱建物跡が見つかりました。祭祀用の建物と考えられています。復元して建てられています。
 また,遺跡の周りから貯蔵穴や竪穴住居跡が見つかっています。  
  発掘調査を行って,この遺跡から土偶や土製品が多く見つかりました。そのためここは「集団墓」をともなった「祭祀施設」であったと考えられています。