江戸時代

 1603年征夷大将軍となった徳川家康によって江戸に幕府が開かれ、15代将軍 将軍徳川慶喜の大政奉還まで、徳川の政治が265年間続きました。この間、江戸幕府は鎖国令を出し、一部の国を除き外国の船が来航することを禁止しました。そのため国内の文化や学問が大きく発展し安定した政治が長く続きました。しかし、幕府は財政の立て直しのため何度か大きな改革を行うことがありました、これらにより不満を持つ武士たちも多くなってきました。

天草 四郎(あまくさ しろう)[1621~1638年]

本名は益田時貞(ますだときさだ)です。島原・天草のキリシタンたちが起こした島原の乱(天草一揆)では一揆軍の先頭に立って戦いました。

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平田靱負(ひらたゆきえ)[1704~1755年]

薩摩藩の家老で愛知・三重県境の木曽三川分流工事を指揮しました。(宝暦治水)これは難工事で、薩摩藩の出費も多く殉職した武士も多数いたため、工事の完成後に責任をとって自害しました。

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伊能忠敬(いのうただたか)[1745~1818年]

千葉県佐倉で生まれ、幕府の命により、全国を測量して「大日本沿海輿地全図」を完成させました。

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岩永三五郎(いわながさんごろう)[1793~1851年]

石工で、児童文学者今西祐行の「肥後の石工」に実在の人物として登場します。

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出雲阿国(いずものおくに)[生没年不詳]

出雲大社の巫女であったので出雲阿国と呼ばれています。歌舞伎の創始者と言われています。

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ジャックスペックス(じゃっくすべっくす)[1585~1645年]

日本とオランダの橋渡し役として活躍した人です。初代と第3代の長崎平戸にあったオランダ商館長です。

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松尾芭蕉(まつおばしょう)[1644~1694年]

三重県伊賀市で生まれた俳人です。名は松尾宗房。諸国を旅しながら俳句をつくり、紀行文「野ざらし紀行」や「おくのほそ道」などをまとめました。

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小林一茶(こばやしいっさ)[1763~1827年]

小林弥太郎、長野県信濃町柏原の生まれで、江戸に奉公に出て俳諧を学びました。その後諸国を歩いて回り俳句を作りました。「我と来て遊べや親のない雀」は子供のころを思い出して作った作品です。

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林羅山(はやし らざん)[1583~1657年]

江戸時代 京都で生まれ、名は信勝(のぶかつ)といいます。建仁寺で仏教を学び、藤原惺窩(せいか)から朱子学を学びました。幼いころから秀才の羅山は惺窩の勧めもあり徳川家康に仕えることとなりました。家康、秀忠、家光、家綱4代の下でさらに才能を発揮し、江戸幕府の諸政策、外交、文書作成などに深く関わりました。

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賀茂真淵(かものまぶち)[1697~1769年]

静岡県浜松市の生まれで万葉集などを研究した国学者であり歌人です。父は生家に近い神社の神職をしていました。真淵は梅谷家の養子となりますが30歳で家を出て京都で荷田春満(かだのあずままろ)から国学を学びます。後に江戸に出て第8代将軍吉宗の次男の徳川宗武(とくがわむねたけ)に仕えながら国学を教えました。賀茂真淵は大和を訪れた後伊勢参りをしました。その際、松坂で年若い本居宣長と対面しました。(「松阪の一夜」)その時以来文通を重ね本居宣長は賀茂真淵の弟子となりました。

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本居宣長(もとおりのりなが)([1730~1801年]

松阪で木綿問屋の子として生まれました。幼名は富之助です。成人して京都で医師となりますが、同時に「源氏物語」や「古事記」の研究も行っていました。1798年長年の研究の成果をまとめた「古事記伝」を完成し国学を確立しました。

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ウィリアム・アダムス・三浦按針(みうらあんじん)[1564~1620年]

大分県に漂着したオランダ船に水先案内人として乗船していたイギリス人です。その後神奈川に住みつき、幕府の外交顧問として働きました。

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毛利重就(もうりしげなり・しげたか)[1725~1789年]

長府藩の藩主でしたが長州藩の7代藩主となり、財政難に陥っていた藩の立て直しに取り組みました。

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中江藤樹(なかえとうじゅ)[1608~1648年]

中国で学び、朱子学に対抗する陽明学を日本で唱えた学者です。知識と行動は切り離せないものとする「知行合一」(ちこうごういつ)を基本的真理としています。

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二宮尊徳・金次郎(にのみやそんとく・きんじろう)[1787~1856年]

農村の生まれで、伯父の家で農業を手伝いながら寸暇惜しんで学問に励みました。成長して小田原藩士となり農業改革に取り組みました。尊徳が唱えた「報徳思想」は人として生きるための学問です。

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頼山陽(らいさんよう)[1781~1832年]

大阪で生まれた儒学者、歴史学者です。私塾を開き多くの人に影響を与えました。漢文体の史書「日本外史」を著しました。

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リチャード・コックス[1566~1624年]

長崎県平戸にあったイギリス商館の館長です。

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良寛(りょうかん)[1758~1831年]

山本栄蔵 新潟県出雲崎町出身の僧で歌人です。僧であっても寺を持たず説法もしませんでした。子供や自然を愛して暮しました。

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佐久間象山(さくましょうざん)[1811~1864年]

幕末 長野県で生まれました。江戸で朱子学や蘭学を学び開国論や公武合体を唱えました。自ら開いた塾では西洋砲術などを教え、勝海舟、吉田松陰、坂本龍馬らに影響を与えました。また、沿岸警備の重要性を「海防八策」として老中に提出しています。京都で攘夷派に暗殺されました。

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佐々木 小次郎(ささき こじろう)[~1612年]

宮本武蔵と巌流島(がんりゅうじま)で戦った剣客です。

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島津斉彬(しまづなりあきら)[1809~1859年]

薩摩藩主で中国や西洋の学問・技術に興味を持ち日本初の西洋式機械工場である「集成館」を建造しました。また、西郷隆盛や大久保利通など有能な下級武士を藩政に参加させました。

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島津重豪(しまづしげひで)[1745~1833年]

薩摩藩 第8代の藩主です。

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角倉了以(すみのくらりょうい)[1554~1614]

京都の生まれ幼名は与七です。吉田光好(みつよし)が本名で、京都の商人でした。豊臣政権下で朱印状をもって海外との貿易(朱印船貿易)を行い利益を得ていました。大堰(おおい)川、富士川、高瀬川などの水路をつくりました。

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程順則(ていじゅんそく)[1663~1735年]

久米村で生まれ、名は名護寵文(なごちょうぶん)です。中国で学問を学び、教育者として琉球初の学校となる「明倫堂」を建設することを提言しました。

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戸田氏鉄(とだうじかね)[1577~1655年]

愛知県豊橋で生まれ、後に美濃国大垣藩の初代藩主となりました。徳川家康の家臣で関ケ原の戦いにも参戦しています。

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徳川家康(とくがわいえやす)・松平元康(まつだいらもとやす)[1542~1616年]

愛知県岡崎で生まれ、幼名は竹千代といいます。元信、元康と名乗っていたこともありました。織田氏や今川氏の人質となって三河の外で少年期を過ごしました。豊臣政権下の五大老の筆頭となり、1600年の関ヶ原の戦いで石田三成を破って天下を統一し、1603年には征夷大将軍となって江戸に幕府を開きました。

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徳川光圀(とくがわみつくに)・水戸光圀(みとみつくに)・水戸黄門(みとこうもん)[1628~1700年]

徳川家光の時代、水戸藩の第2代藩主でした。「水戸黄門」としてテレビに登場し、天下の副将軍として諸国を回り悪を懲らしめていますが全て創作です。歴史書の編纂を命じ、没後に「大日本史」として完成しました。

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渡辺崋山(わたなべかざん)[1793~1841年]

愛知県田原藩の子として江戸で生まれ儒学、蘭学を学びました。1839年幕府の鎖国政策を批判したため、蛮社の獄で田原で蟄居(ちっきょ)させられました。

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弥次郎兵衛と喜多八(やじろべえときたはち)『東海道中膝栗毛』(とうかいどうちゅうひざくりげ)

十返舎一九が書いた「東海道中膝栗毛」(とうかいどうちゅうひざくりげ)は江戸に住んでいた弥次郎兵衛と喜多八が江戸から京都まで旅をる物語です。

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横井 也有(よこいやゆう)[1702~1783年]

横井時般(ときつら)は尾張藩に仕えていた武士で武芸に秀でていました。また俳人でもあり俳句を集めた「鶉衣(うずらごろも)」を著しました。

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由井正雪(ゆい しょうせつ)[1605~1651年]

幕府で働くことを断わり塾を開いて浪人たちを集めて教えていました。幕府政治に不満を持つようになり、将軍が徳川家綱になると、幕府転覆(慶安の変)を計画しました。事前に計画が漏れ自害しました。

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調所広郷(ずしょひろさと)[1776~1849年]

薩摩藩の家老で財政改革を推し進めました。

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吉良上野介義央(きらこうずけのすけよしひさ) 吉良上野介 吉良義央(きらよしなか)[1641~1703年]

江戸で生まれ、幼名は三郎といいます。現在の愛知県西尾市吉良が領地で、「忠臣蔵」では吉良上野介は悪役のように描かれていますが、当時洪水に困っていた領民のため黄金堤を築くなど名君として慕われていました。
江戸城において播州赤穂(兵庫県)の藩主浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)が勅使饗応役(ちょくしきょうおうやく)として京都からの使者をもてなすこととなっていました。無礼があってはいけないので浅野内匠頭を指導する役がつけられていましたが、それが吉良上野介です。慣例では、浅野内匠頭が吉良上野介に高額な賄賂を渡して教えてもらうことになっていましたが、それが十分ではなく、吉良上野介は浅野内匠頭に冷たく接していました。もともと塩の生産について不満を持っていたこともあり、若気の至りから城中松の廊下で浅野内匠頭は吉良上野介を切りつけてしまいました。(切りつけた原因は諸説あります。)幸いにも吉良上野介のけがは大したことではありませんでしたが、城中で刀を抜いた浅野内匠頭は切腹となり、赤穂城は没収となりました。しかし、吉良上野介は無罪でした。この恨みが積もって大石内蔵助をはじめとする47人の赤穂の家臣たちは殿の命日の12月14日に吉良屋敷に討ち入り、吉良上野介を殺しました。この後赤穂の家臣たちは切腹しました。

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高山彦九郎(たかやまひこくろう)[1747~1793年]

群馬県太田市で生まれた尊皇思想家です。諸国を回って勤王を唱えました。

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大黒屋光太夫(だいこくやこうだゆう)[1751~1828年]

大黒屋光太夫は伊勢国の若松村で生まれ、幼名は兵蔵と言います。伊勢国(三重県鈴鹿市白子)で廻船問屋の船頭として働いていました。1782年、光太夫32歳の冬、紀州藩の米を江戸まで運ぶことになり、鈴鹿の港から神昌丸に乗って出港しました。しかし、駿河湾で暴風雨に遭い漂流してしまいました。7か月漂流した後、アリューシャン列島のアムチトカ島に漂着しました。ここで寒さに耐え4年間生活しロシア本国へと渡りました。漂流から10年が経ち、国王の許可が得られた光太夫らは日本に帰国しました。光太夫が10年間で見聞したことは当時の日本の蘭学に大きな影響を゜あたえました。

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山田長政(やまだながまさ)[不明~1630年]

山田仁左衛門長政 出生地ははっきりしませんが、静岡県静岡市葵区の浅間神社付近(馬場町)ではないかとされています。日本が戦国時代、現在のタイ王国はシャムと呼ばれており、首都はアユタヤにありました。アユタヤは東南アジア各地との貿易でにぎわい、外国人の居住する町ができていました。その中の一つが日本人町です。江戸時代の始めに静岡から渡ってきた山田長政はソングタム国王の護衛を勤めました。勇猛果敢な日本人義勇隊の隊長として外国からの圧力や国内の反乱軍をおさえました。また、マレーシアやインドネシアなどとの交易を盛んにし、東南アジア貿易で大成功しました。そして、日本人町の頭領となり王朝からアユタヤの官位も授かりました。

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甲良宗広(こうらむねひろ)[1574~1646年]

滋賀県犬上郡甲良町で生まれ、幼名は小左衛門といいます。江戸幕府の作事方大棟梁として日光東照宮の造営など多くの建築物を手がけました。

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兵衛門(へいえもん)・兵太夫(へいだゆう)[生没年不明]( 滋賀県犬上郡甲良町呉竹)

兵衛門(へいえもん)と兵太夫(へいだゆう)は兄弟で、風水害や飢饉で呉竹村の住民が苦しんでいるのを見かねて、私財を村に寄進することで村人の生活を救いました。

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薩摩義士(宝暦治水)

1753年(宝暦3年)、幕府は薩摩藩に木曽川、長良川、揖斐川の洪水を防ぐための治水工事を命じました。家老の平田靱負は多くの薩摩藩士らとともに三川分流工事を行いました。しかし、これは難工事で、多くの藩士・農民の犠牲者がでました。それでも工事を続け、工事を完成させました。この工事に参加した薩摩藩士のことを薩摩義士とよんでいます。

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姫 姫街道 本陣前公園(静岡県浜松市北区細江町気賀)

東海道の新居関を通らない道を脇街道といいます。この道は御油宿(愛知県豊川市)と見附宿(静岡県磐田市)を結ぶ道で浜名湖の北に位置する道です。

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細井平洲(ほそいへいしゅう)[1728~1801年]

細井徳民といいます。愛知県東海市で生まれました。名古屋や長崎などで学び、江戸で私塾(嚶鳴館 おうめいかん)を開き儒学を教えました。上杉鷹山の師であり、財政改革を成功させた鷹山に招かれ米沢で講義をしています。

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岡崎宿伝馬歴史プロムナード

岡崎は石の町です。旧東海道の街道の伝馬(てんま)交差点から伝馬通り1丁目交差点までの歩道には岡崎宿の様子を表現した20体の小さな石造があります。これらは岡崎にお住まいの石仏彫刻家鈴木登三信さんの作品です。

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支倉常長(はせくらつねなが)[1571~1622年]

山形県米沢市で生まれ、幼名は與市です。伊達正宗に仕え、慶長遣欧使節として、アメリカ大陸を経てスペインやイタリアを訪問し、国王やローマ教皇に謁見しました。

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林子平(はやししへい)[1738~1793年]

寛政の三奇人(かんせいのさんきじん 他に高山彦九郎、蒲生君平がいる)の一人で、世を治めて民を救うという経世論(けいせいろん)に基づき活動した人です。名は友直で仙台藩士でしたが、禄を返上して全国を行脚しながら見聞を広めていくうち、海外の諸事情を知るところとなりました。後に『海国兵談』を著しました。

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河合曾良(かわいそら)[1649~1710年]

長野県諏訪市で生まれました。俳諧師で松尾芭蕉とともに東北地方各地の旅にでかけ紀行文『曾良旅日記』(そらたびにっき)を残しています。これは松尾芭蕉の『奥の細道』研究の資料ともなっています。

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南部直房(なんぶなおふさ)[1628~1668年]

盛岡藩が幕府の命により領地を盛岡と八戸の二つに分けられました。八戸藩の初代藩主となったのが南部直房です。

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恩田民親(おんだたみちか)恩田木工(おんだもく)民親[1717~1762年]

長野県長野市松代町で生まれ、幼名は佐吉です。30歳という若さで松代藩家老となり、それまで困窮していた藩財政の立て直しに取りかかりました。綱紀粛正を始め、倹約・文武奨励を進めるなど精力的に活躍しましたが、志半ばで病死しました。

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上杉鷹山(うえすぎようざん)上杉治憲(うえすぎはるのり)[1751~1822年]

宮崎県の高鍋藩(たかなべはん)の藩主の子として生まれ、幼名は松三郎です。10歳で米沢藩主の養子となりました。米沢藩第9代の藩主となり、藩領返上寸前となっていた藩財政の改革に取り組み、古くからの重臣らの反対を押し切り、悪習の廃止と徹底した倹約に努めました。これらにより財政立て直しに成功し、名君と呼ばれました。

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ヤン・ヨーステン(やんよーすてん)[1556~1623年]

ヤン・ヨーステン・ファン・ローデンスタイン(Jan Joosten van Loodensteyn)オランダ船リーフデ号でウイリアムアダムス(三浦按針)らと日本に来ましたが、現在の大分県に漂着しました。その後、江戸に屋敷を構え、朱印船貿易を行いました。八重洲の地名のもとになっています。

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春日局(斎藤福)(かすがのつぼね(さいとう ふく)[1579~1643年]

美濃の斉藤氏の一族の父斎藤利三は丹波で明智氏に仕えており、福は現在の兵庫県丹波市にある興禅寺(こうぜんじ)で生まれました。本能寺の変と続く山崎の戦い以降、福は母方の実家のある美濃の稲葉家で過ごしました。その後、稲葉正成の妻となり、その素養が認められ将軍家の乳母となるため離縁し江戸城に入りました。そして、徳川秀忠の子の竹千代の乳母となり、竹千代が3代将軍徳川家光となると、大奥の実権を握るようになりました。「春日局」は上洛の際賜った号です。

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大石内蔵助・大石良雄(おおいしくらのすけ・おおいしよしお)[1659~1703年]

現在の兵庫県で生まれ、幼名は松之丞(他説あり)、赤穂藩(あこうはん)の家老です。藩主浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)が江戸において朝廷の勅使を接待する役に任ぜられ、その指南役が吉良氏でした。元禄14年3月14日、江戸城での儀式の前、松之廊下で浅野内匠頭が吉良氏に切りつけました。このため切腹を命じられ、浅野家はお家断絶となりましたが、吉良氏は処分なしでした。内蔵助は藩内が混乱する中、事態の鎮静化に努めた後、浅野家再興に奔走しました。しかし、御家再興が絶望的とわかると元禄15年12月15日未明に内蔵助を含む47人の赤穂浪士たちが吉良屋敷に討ち入り主君の無念を晴らしました。「忠臣蔵」として有名です。

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石川丈山(いしかわじょうざん)[1583~1672年]

現在の愛知県安城市で松平家の家臣の子として生まれました。本名は重之、幼いころより文武両道に優れていたと伝えられています。武士として徳川家康に仕えましたが大坂夏の陣後は浪人として京都で暮らしました。林羅山と交流があり、藤原惺窩(ふじわらせいか)を師として儒学を学びました。その後、武士として、和歌山や広島で暮らすこととなりましたが、京都にもどって詩人となりました。京都の詩仙堂で漢詩人として過ごしました。

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桂昌院(けいしょういん)[1627~1705年]

京都の生まれです。3代将軍徳川家光の側室となっていたお万の方(永光院)に仕えていましたが、家光に見初められ側室となりました。お玉の方と呼ばれ、5代将軍綱吉の生母となりました。綱吉は「生類憐れみの令」を出しますが、これに助力したのが母の桂昌院と言われています。

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養珠院 於萬の方(ようじゅいん おまんのかた)[1580~1653年]

房総半島の勝浦城主の娘として生まれました。徳川家康の側室となり、徳川頼宣(紀州徳川家)、徳川頼房(水戸徳川家)を生みました。

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新井白石(あらいはくせき)[1657~1725年]

明暦3年、上総国久留里藩士の新井正済の長男として生まれました。名は君美(きんみ)、勘解由(かげゆ)は通称。江戸時代の朱子学者ですが政治家、詩人でもありました。6代将軍徳川家宣(いえのぶ)、7代将軍家継(いえつぐ)に仕えて幕政を補佐しました。武力によらない教化または法によって国を治める文治政治を行い、正徳年間に新井白石が行った政治改革は正徳の治(しょうとくのち)と呼ばれています。『折りたく柴の記』を著わしました。

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