大石内蔵助・大石良雄(おおいしくらのすけ・おおいしよしお)[1659~1703年]

現在の兵庫県で生まれ、幼名は松之丞(他説あり)、赤穂藩(あこうはん)の家老です。藩主浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)が江戸において朝廷の勅使を接待する役に任ぜられ、その指南役が吉良氏でした。元禄14年3月14日、江戸城での儀式の前、松之廊下で浅野内匠頭が吉良氏に切りつけました。このため切腹を命じられ、浅野家はお家断絶となりましたが、吉良氏は処分なしでした。内蔵助は藩内が混乱する中、事態の鎮静化に努めた後、浅野家再興に奔走しました。しかし、御家再興が絶望的とわかると元禄15年12月15日未明に内蔵助を含む47人の赤穂浪士たちが吉良屋敷に討ち入り主君の無念を晴らしました。「忠臣蔵」として有名です。