板垣退助(いたがきたいすけ)[1837~1919年]

 土佐藩士の乾栄六正成(いぬいえいろくまさなり)の子として生まれました。藩主山内容堂に仕え、藩では重役に就いていました。幕末は討幕運動に加わり、維新後は後藤象二郎らと愛国公党を組織して民撰議院設立建白書を提出しました。自由民権運動を進め、1881年に自由党の総理に就任しました。岐阜で演説中に暴漢に襲われ「板垣死すとも自由は死せず」と言ったとされていますが、事実ではないようです。