虎       絵の解説

 大海人皇子が大津の都を出て吉野へ向かうとき,宇治橋まで見送った舎人(とねり)たちは,去っていく大海人皇子を見て「翼のある虎を野に放したようなものだ」と言った。

 672年,まさにその通りのことが起こる。 
 (原画作成  寺下悦朗) 

「壬申の乱」の背景

              
白村江の戦いで大敗したため都を飛鳥(倭京)から近江(大津京)へ遷した
近江の都
大 津 京
  
 中大兄皇子は白村江の戦いの後,667年3月に飛鳥から近江(大津市)に遷都し天智天皇となった。
 この遷都は民衆や豪族たちに歓迎されてはいなかったが天皇が強行したようである。
錦織遺跡
大津京のあった大津市錦織(にしごおり)遺跡
大 津   ここは大和王権の時代より渡来人が多く住んでいる地。朝鮮半島からの兵の侵攻に対しても川や湖に挟まれている場所で,防衛するのに適していることも遷都の理由だった。また,東国に近く,兵を集めるのにも都合がよい場所だった。さらに,以前より親交のあった高句麗(こうくり・コグリョ)には北陸道を通って日本海に出れば短い距離でつながることになる。 大津市内
大津プリンスホテルから大津市内を見る
藤原鎌足  天智天皇を助けて政治の中心にいたのは,大化改新の時共に戦った中臣鎌足(藤原鎌足)と天智天皇の弟(皇太弟)大海人皇子だった。 鎌足は兄天智天皇と弟大海人皇子の間にいて,調整役として重要な人物でもあった。しかし,藤原鎌足がこの世から去ると,兄と弟の間の距離があいていくようになった。

 天智天皇は鏡王女(かがみのおうきみ−額田王の姉)を后としていたが,鎌足に下賜している。

藤原鎌足が祀られている談山神社
(奈良県桜井市多武峰)
談山神社は中臣鎌足の没後,鎌足の長男で唐に留学していた定恵(じょうえ定慧・貞恵と同じ)が多武峰に墓を移し,十三重塔を建立した。神殿は701年に創建された。
藤原鎌足の墓がある御破裂山(ごはれつざん)
大海人皇子と額田王との関係は?
額田王をめぐる大海人皇子と天智天皇の対立  万葉集に蒲生野(がもうの:現在の東近江市〜竜王町)に薬狩に出かけた時(日本書紀には668年5月5日に天智天皇が蒲生野−当時は天皇の領地であった原野−で薬猟(くすりがり:獣,特に鹿の角を取るための狩り,女性の場合は薬草採集をさす)をしたこと,その際,大海人皇子,中臣鎌足,その他朝廷の重臣たちが従ったことが記されている。)の額田王の歌がある。
                  右上

あかねさす 紫野(むらさきの)行き 標野(しめの)行き 
野守
(のもり)
は見ずや 君が袖振る


(紫草の生えている野を行ったり来たりしながらあなたが袖を振っているのを野の番人が見ていますよ)

 これに対して大海人皇子は右下のように答えている。

紫草(むらさき)の にほへる(いも)を 憎くあらば 
人妻ゆえに われ恋ひめやも

(紫草のように美しいあなたが憎いのならどうして人妻に恋をするものですか)

 これを酒宴の戯れ言とするのが一般論。額田王は万葉集の歌人として有名だが,かつて大海人皇子に嫁いでいた。大海人皇子との間には十市皇女が生まれたが,後に額田王は天智天皇に仕える。大海人皇子は喜んで最愛の人と別れたのだろうか,疑問が残る。兄とはいえ天皇,天皇の声がかかれば別れなければならなかったのだろう。あるいは,額田王がしたたかに生きるために自ら別れを選んだと考えるべきかで迷うところだが・・・・。
 大海人皇子は兄天智天皇の皇女を妻にしている。
額田王の歌
雪野山大橋欄干
あかねさす 紫野(むらさきの)行き 標野(しめの)行き 野守(のもり)は見ずや 君か袖振る
  (紫草の生えている野を行ったり来たりしながらあなたが袖を振っているのを野の番人が見ていますよ)

大海人皇子の歌
雪野山大橋欄干
紫草(むらさき)の にほへる妹(いも)を 憎くあらば 人妻ゆえに われ恋ひめやも
 (紫草のように美しいあなたが憎いのならどうして人妻に恋をするものですか)


蒲生野と呼ばれていたところ
雪野山(竜王町)

万葉の森船岡山にある相聞歌レリーフ
(滋賀県東近江市野口町・糠塚町)
余談

「妹背の里」
 蒲生郡竜王町に「妹背の里」がある。名神高速道路の竜王インターで下りて,額田王の出身地,鏡王(鏡作り部)が支配していた地域,蒲生郡に入る。雪野山を地図で探し,その麓を目指す。祖父川を過ぎ日野川が見える。雪野山ふるさと街道を通り日野川にかかる雪野山大橋に着く。ここで橋の欄干にある大海人皇子と額田王の像を見る。そして,堤防道を東に向かうと田畑の中に広い芝生公園(雪野山史跡の広場「妹背の里」)が見える。テニスコート,アスレチック広場,バンガローやテントサイトがある。芝生広場に立つ大海人皇子と額田王の等身大の像,蒲生野での二人の姿を見上げ,万葉の昔に想いをはせる。 妹背
妹背の里(滋賀県蒲生郡竜王町大字川守)
余談

日野川に架かる雪野山大橋欄干

蒲生郡竜王町川守・八日市市新巻町
 
額田王像(雪野山大橋欄干)
あかねさす 紫野(むらさきの)行き 標野(しめの)行き 
野守
(のもり)
は見ずや 君が袖振る
 
大海人皇子像(雪野山大橋欄干)
紫草(むらさき)の にほへる(いも)を 憎くあらば 
人妻ゆえに われ恋ひめやも
  
雪野山大橋欄干
余談

石塔寺
 石塔寺(いしどうじ)は聖徳太子の創建と伝えられ,阿育王(あしょかおう)塔とも呼ばれている三重の石塔(国宝)がある。これは国内最大で最古の石塔で高さが7mある。その形から,朝鮮半島からの渡来人が建てたともいわれている。この周辺は渡来人が多く住んでいた。白村江の戦いで難民となった百済の人々の中には多くの技術者もおり,彼らが蒲生に移り住んだ。

 日本書紀には天智8年に鬼室集斯(きしつしゅうし)ら男女700人余りを蒲生に転居させたとある。

石塔寺
滋賀県東近江市石塔町.
国宝阿育王宝塔
石塔寺
石塔寺(滋賀県東近江市石塔町)
皇位継承  当時の皇位は同母の兄弟相続を原則としていた。これに従えば次は大海人皇子が天皇になるはず。また,天智天皇の子大友皇子の生母は地方の豪族の娘で地位が低い。天智天皇を補佐して,朝廷内でも信望の厚かった大海人皇子が次の天皇になるとだれもが思っていた。しかし,天智天皇は息子の大友皇子に譲るために大海人皇子を疎外し始め,そして,天智10年(671年)正月,天皇は大友皇子を太政大臣とする体制をつくった。  大津京
大津京模型(大津市歴史博物館許可)
余談

吉野
歴史は縄文時代から
 奈良県の南部に吉野は位置している。山の中にあり,静かな落ち着いた所。集落の真ん中を吉野川が流れ,遊泳をしたり,釣りをしたり,清らかで美しい水の流れはこの地に住む人でなくても魅了される。
 吉野川と山で挟まれた土地に,縄文時代から集落があったことが土器の発見によって分かっている。宮滝式とよばれる貝殻を押しつけた模様のある土器は縄文時代の後期の土器の特徴を表す名前にもなった。

 この縄文時代の遺跡の上に,古代の宮(斉明・天武・持統・聖武天皇の離宮)が造られた。
宮滝遺跡
宮滝遺跡跡の碑と宮滝式土器
(吉野歴史資料館蔵 資料館許可)
画像にマウスを置いて土器の拡大
余談

吉野
天皇の離宮
 吉野の離宮跡は吉野町の宮滝から土器や遺構が発見されたことからほぼそこにあったとされているが,吉野郡東吉野村小(こむら)にある丹生川上神社内にも離宮跡の碑が建っていた。しかし,日本書紀の記述に従って宮から榛原までの時間や実際の距離を考えると東吉野村に宮があったとは考えられないとの指摘がある。 吉野離宮跡
丹生川上神社
吉野郡東吉野村
余談

丹生川上神社中社
 「人声の聞こえぬ深山の吉野丹生川上に我が宮柱を立てていつきまつれば、天下のため甘雨を降らせ、霖雨(あしきあめ)を止めよう」と由緒書きにあり,天武天皇が建てた。
 古代では祭政一致の政治を行っていたので、世の中の不安から洪水・日照りまでもが政治的責任と考えられていた。壬申の乱の後,天武天皇が飛鳥浄御原宮(あすかきよみはらのみや)を建て,この地に水に関わる神を祀った。
丹生川上神社
丹生川上神社中社 (吉野郡東吉野村)
余談

吉野
幾たびか歴史の舞台に
 多くの人には,後に後醍醐天皇が南朝を置いた場所として吉野という地名を知られているが,この地は斉明天皇や聖武天皇の離宮がおかれた場所とは離れている。
 吉野は万葉集にも歌われ,天皇についていた歌人達はこの地の名を多くの歌に残している。
 平氏を追討した後の源義経が兄頼朝の手に追われ身を隠したのも吉野でした。ここから東北の地まで逃げ延び,力つく。
 16世紀末,豊臣秀吉はここでも花見をしている。
蔵王堂
南朝が置かれた場所に近い蔵王堂 本堂は国宝
余談

吉野
天皇の離宮
 吉野は天智天皇や天武天皇の母,斉明天皇によって最初に離宮が造られた所。今は桜が有名な吉野,それは昔も同じ。天武天皇は桜が満開に咲く夢を見て天下を治めることを予言したとも言われている。だから,ここの桜を大切にされたのでしょう。天武天皇の没後,持統天皇は30回もここを訪れている。桜見物や昔を懐かしむためだけの目的で来ていたのか。  吉野川
吉野川−吉野離宮があった付近
余談

吉野
 赤い色の
聖地
 吉野は当時の思想的背景にもとづく聖地−道教による神仙境と考えられる大変重要な場所−でもあった。それは近くの宇陀から東吉野にかけて水銀の産地であり,吉野でも水銀朱が採れたことと関係する。これを加熱すれば水銀ができる。水銀朱は道教でいう不老長寿の薬とされていた。聖なる水−水銀朱の混ざった水を飲むことで若さが保たれると考えられていたのでしょう。朱の赤色は中国では皇帝の色。日本では古墳時代より身分の高い人物に使われている色でもある。 中山
象の中山(きさのなかやま)
余談

東吉野町
 吉野から伊勢街道をしばらく行くと東吉野町に入る。江戸から明治へと変わる激動期に,公家や土佐藩士らが大和五条にあった幕府の代官所を襲った。天誅(てんちゅう)組の変である。ここで戦った武士たちの最期の地となったのが東吉野町。町内にはこれに関する多くの史跡がある。 東吉野
高見川・吉野郡東吉野村
竜門     吉野脱出へ
奈良県大宇陀町神楽岡神社境内から西を見る                     

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