「壬申の乱」の戦い

最大の決戦
瀬田唐橋で両軍最後の決戦に挑む

総指揮 高市皇子
将軍 村国連男依

7月22日

瀬田唐橋(せたからはし)の決戦


 最大の決戦地となった瀬田橋。東側に村国男依の軍が布陣。大友皇子率いる朝廷軍は橋の西で構えた。その軍の後が見えないほどの兵の数だったという記述が日本書紀に見える。弓を構えた兵たちは一斉に矢を放ち,それらが雨のように落ちてきた。橋の中程の板をはずして敵を落とすという朝廷郡の仕掛けたわなは,一人の勇者,大分君稚臣(おおきだのきみわかみ−大津皇子の従者)によって破られた。彼はわなを見破り,弓矢の中に突撃した。

瀬田の唐橋(滋賀県大津市) 

大海人皇子軍の勇者大分君稚臣(おおきだのきみわかみ)が敵の中に切り込んだ。
7月22日

瀬田川を渡る
 朝廷軍は総崩れとなった。橋での決戦は村国男依(むらくにのおより)らの軍が朝廷軍を破り,大海人軍は瀬田川を渡り大津京へ向かう。
瀬田から大津へ向かう道 大津市膳所城跡周辺
余談

膳所(ぜぜ)
 大海人皇子の軍は粟津岡(あわずのおか)−大津市膳所(ぜぜ)に陣を置いた。
 現在,膳所神社がある場所は,天智天皇が御厨所(宮の食事を担当)と定めた所
 鳥居奥の門は膳所城の門を移築して置かれている

膳所神社(滋賀県大津市)
7月23日 

大友皇子自害
 大友軍は破れ山前(やまさき)へ敗走。大友皇子はここで自害する(25歳)。
 山前がどこかがはっきりしないが,三井寺前の長等山ではないかと考えられている。現在,大友皇子の陵がここにある。

 逃亡していた近江の重臣だった者たちは次々ととらえられ,8月25日の処罰発表を待った。
 重臣のうち8名が死刑となり,その一人が右大臣中臣金(なかとみのかね)だった。彼は大友皇子軍の中心にいて戦争の指示をしていたのだろうと思われる。

長等山(琵琶湖上より)

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