飛鳥の石造物


 飛鳥といえば石。多くは7世紀につくられたものらしい。何のためにつくられたのかわからないけれど,いろんな表情の石たちが飛鳥を訪れた人たちの心を和ませていることは確かです。一つ一つ個性のある石の造形物は,古代人の遊び心から生まれたものではないでしょうか。古の飛鳥の,石の匠たちが,後世の人々に送ったメッセージが聞こえてきそうです。「心の貧しい人々よ,もっと笑わえよ,微笑めよ。体にも心にも遊びがあってこそ人は長く生きていけるぞ。」と・・・・。少し余裕ができたら,石のメッセージを聞きに飛鳥を訪れませんか。
 ここでは,石造物を中心に礎石や立石など飛鳥にあるいろんな石を集めてみました。
石舞台遺跡
石舞台
蘇我馬子の墓と伝えられている。大小30個の花崗岩を積み上げて築かれた横穴式石室がむきだしになった方形墳である。天井に使われている石の総重量は約140tもある。飛鳥のシンボル的な古墳となっている。石舞台がある一帯は島ノ庄と呼び,もともと蘇我氏の所有地だった。当時強大な権力を誇っていた蘇我馬子の庭園があり,そのため蘇我馬子の墓と伝えられている。古墳でありながら「石舞台」と呼ばれているのは,天井石を舞台にして狐が女に化けて舞を見せたという伝説があり,また,いつの時代かわからないが,旅芸人がこの石の上で舞を披露したという云われから名付けられているらしい。
亀石(明日香村川原)
4.5m×2.7m,高さ2m蛙の顔に似ているが亀石。南西を向いて置かれているが,もし西の当麻(たいま)の方を向いたら,大和盆地は大洪水となり泥沼化すると伝えられている。他の立石のように寺域を示す物かもしれないと言われているが不明。(右側写真はフィッシュアイレンズを使用して撮影)
酒船石(明日香村岡)
油を絞ったとか薬を作ったとか言われているが,周辺から石樋や石造物が発見され,飛鳥京の庭園の一部ではないかという説が有力になってきた。もとはもっと大きな石で,側面に削った跡が残っていることから,18世紀に高取城の築城の際に使われたのではないかと言われている。長さは5.5m,幅2.3m,厚さ1m。右側の写真はフィッシュアイレンズを使用して西側から撮影した。枕石が置かれ,水の流れを調節する役目があったらしい。
 
出水の酒船石((明日香村飛鳥資料館) レプリカ)
長さ2.2m,幅1.7m,飛鳥の酒船石より西に600mの田んぼから2個の石が発見されたが現在は京都の南禅寺近くの碧雲荘にあり非公開となっている。庭園を構成する導水施設の一部であったと考えられている。飛鳥に陽石が存在するから,これは陰石ではないかと想像している。(私見)
車石((明日香村飛鳥資料館))
荷車の轍(わだち)のような線が入っているので車石と呼ばれているが,実は水を流す導水施設だったらしい。明日香村の民家の庭にあった石をここに移設したと説明が書かれていた。彫られている溝はさほど深くないが,表面が削られたためで,もとはもう少し深かったようだ。酒船石から続き,水を流すものかもしれない。
亀形石造物(明日香村 岡)
この発見によりここに斉明天皇の時代の両槻宮があったことが確定的となった。左側の方形石槽から亀形石槽の頭の部分に流れ,尾から流れ出る仕組みになっている。明日香は渡来人が多く住んでいた。その知識や技術によって都造りが行われた。これらの水を流す施設づくりにも多くの渡来人がかかわったのではないだろうか。以前ガイドらしい人が「これはレプリカ」と説明していたのを聞いたことがあるが,本物である。
両槻宮(ふたつきのみや)
現在,酒船石のある丘一帯は斉明天皇の時代の両槻宮跡ではないかと言われているが,日本書紀の記述に従えば,ここは石垣で囲まれていた。その跡を示すのがこれらの天理砂岩で作られた石のブロックである。これらの石は天理市にある平尾山付近が産地と推定されている。ここから飛鳥の都まで運河が造られ,船で石を運んだらしい。
岡の立石
岡寺の入り口付近にある細い登り道(わかりにくい)を5分ほど上ると出会う。立石は各寺の結界石とか宮の領域を示す石とも言われているが,明日香村には他にもたくさんの立石がある。
石人像(明日香村飛鳥資料館)
石神遺跡から出土した。杯を持って岩に座っている老人に,背面から老女の手が老人の袖にふれている。足裏から口まで細い穴が貫いており,噴水施設のように思われる。饗宴を催す際に使われたものと考えられている。
須弥山石 しゅみせんせき(明日香村飛鳥資料館)
石人像と同じ石神遺跡から出土した。上段が須弥山,中段に山々,下段に波紋が彫られている。模様のつながりから,もう1個積み重ねた4段構成と考えられているが4つめの石は発見されていない。資料館内部に出土された3個が展示してあり,庭には4段が復元されている。
飛鳥苑池遺構出土 石造物
1999年に発掘され,現在は奈良県立橿原考古学研究所
附属博物館に展示されている。発見された場所から考えて,
噴水施設であろうと考えられている。


山王権現

山王権現の背面(飛鳥資料館の復元像)


猿石(明日香村下平田)
欽明天皇陵近くの吉備姫王(きびひめおう)の墓に4体置かれている。元禄時代の1702年10月5日に,欽明天皇陵前の水田から5体出土した。1体は高取城に運ばれた猿石。朝鮮半島に似たものがあるとされるので,渡来人の伝えた技術で造ったものであろう。亀石を含むこれらの石造物はもともと古墳の周りに置かれていたのではないだろうか。単に境界を示すためのものではなく,守護神のような役目があったと想像する。これらは正面からしか見ることはできないが,背面にも顔が彫られた石像がある。飛鳥資料館に復元された石像が置かれている。
猿石
高取城の二の門近くにある石で,欽明天皇陵前の水田から5体出土したものの一つ。築城の際運び込まれた。古墳の石材として使っていたのではないかと思われる石を台にして置かれている。明日香村にある埋蔵文化財展示室(水落遺跡前)にあるのは複製で,本物はここ高取城への入り口にある。
鬼の雪隠(せっちん)鬼の俎板(まないた) (明日香村野口)
この2石はもともと1組のもので俎の上に雪隠が乗る形となり,古墳の横穴式石室の石材であろうと考えられている。この近くには古墳が点在しており,特別な区域と考えられる。墳丘が崩れて石室が転がってしまったため,現在のような形になったのではないか。
鬼の伝説がもとになって名前が付いたようだが,本当に鬼が使っていたトイレやまな板ではないだろう。
弥勒石
7世紀後半からの条里の境界を示す目印か,飛鳥川の堰に使われていたのではないかと言われている高さ2mぐらいの石。地蔵のように顔が彫られているようにも見えるが,後から彫ったのではとも言われている。村の人は「弥勒さん(弥勒菩薩)」として信仰している。これも岡の立石などと同様,宮の境界を示すものではないかと考えられている。
人頭石(高取町観覚寺)
高取町の光永寺にある高さ1mの顔の形をした石造物。顔の左半分だけがあり,右半分は彫られていない。頭頂部は丸く彫られており,水を入れておくようにしたのかもしれない。
益田の岩船(橿原市南妙法寺町)
「益田の岩船」と呼ばれているが石船ではない。約10m×8mの長方形で高さは約6m,総重量約900t。表面に模様が見られる。上部の2つの方形穴を見ると古墳の石室を想像させる。牽牛子塚古墳の石室に似た形であることも気になる。何らかの理由(飛鳥資料館発行の図録によれば,「2つの穴をあける途中,低い節理面の亀裂が進んでいることが判明し放棄された」)で途中で制作を中止したのだろう。
 
豊浦寺文様石
表面に模様のある石が豊浦寺にある。豊浦寺は推古天皇の豊浦宮の跡に建てられた。この石の端を見ると割ったような跡があることから,もともとは大きな石だったと思われる。この寺の付近にある用水路にも模様のある石が発見されているがトンネルの中らしく見ることは容易ではない。これらの石を組み合わせると何らかの形になるのであろう。飛鳥資料館にある須弥山石の模様に似てはいないか。
右は同じ豊浦寺の境内にあった石で,礎石と考えられる。他にもいくつかの礎石を見ることができる。
二面石(橘寺) 
善と悪の両方の顔と言われている。寺の説明では,表と裏で人の心の善悪二業一心を表しており,人間の善悪両面を石に具現化した物とある。
橘寺 三光石
聖徳太子が勝鬘経を講じていると冠から日・月・星の光を放った。天皇は太子に命じて寺を建てさせたという。橘寺創建にかかわる石でもある。
橘寺 礎石
橘寺にあった五重の塔の礎石。この模様が寺の名前の由来と言われる。
飛び石
稲淵地区を東へ飛鳥川にかかる勧請橋渡りそのまま200mほど進むと左手に下りていく道が見つかる。飛鳥川に沿って西に戻るとこの飛び石がある。わかりにくい場合は勧請橋を渡らず,左の細い道を民家のある方へ進む。しばらく行くと「飛び石」の案内が見つかるのでその方へと進むと「明日香川 明日も渡らむ 石橋の 遠き心は ほえぬかも」と書かれた万葉歌碑と石橋がある。飛鳥時代に飛鳥川に橋はなかったようでこの飛び石が橋のかわりをしていた。
マラ石(祝戸)
形が陽石に似ているが立石の一つ。
石舞台古墳から稲渕に向かう細い道がある。途中稲淵宮跡の方へ曲がる道を少し行くと見つかる。
 
立部(たちべ)の立石
左は定林寺跡にある小さな石。形はよくわからない。右は現在の定林寺境内にあるマラ石に似た石柱。
上居(じょうご)の立石
明日香村上居地区の道路際にある。分かれ道を10m程登る。特別な形ではなく,模様もない自然石が立っている。
豊浦の立石(甘樫坐神社)
甘樫坐神社の境内に一際目立つ大きな石が立っている。この石の前で毎年4月に盟神探湯(くがたち)という神事が行われる。盟神探湯は古代の裁判と考えられており,煮えたぎる湯の入った釜の中に手を入れて,火傷をするしないで罪のあるなしを決めたらしい。
飛鳥坐神社(明日香村大字飛鳥字神奈備)
この神社はもとは神奈備と呼ばれたところにあったが829年(天長6)に鳥形山いう丘に遷された。現在も所在地として「字神奈備」を残すが古代の神奈備の場所ではない。祭神として事代主神,高皇産霊神,飛鳥三日比売神,大物主神が祀られている。五穀豊穣を祈願して置かれた陰陽石(女性・男性器形の石)が境内の至る所に見られ,子授けの神としても信仰されている。
龍福寺石塔
稲淵地区に龍福寺がある。ここにある石塔は,原形を止めてはいないが,もとは朝鮮式の五重の石塔(日本最古の銘文入り層塔)と思われる。台の部分には「天平勝宝三年(751年)」「竹野王」の文字が彫られている。この地域が渡来人と深く関わっていたことがわかる。
くつな石
都塚古墳から阪田の集落を抜けて山に向かって細い道を歩く。小さな案内板が見つかる。さらに山を登ったところに鳥居が立つ巨石が見つかる。100m手前に由来書きがあり,それによると,「昔,この石を切り出そうと石屋がのみで「コーン」と一打ちすると,石の割れ目から赤い血が流れ出し傷ついたヘビが出て来たので石屋はびっくりして逃げ帰ったが,ひどい熱で,とうとう亡くなったそうな。村人はこれは神のたたりだと恐れ,それ以来神の宿る石として祀った。」とある。
祝戸展望台
古代,祝戸展望台のある山をミハ山と呼んだ。ここは飛鳥の神奈備山ではないかと言われている。展望台は西と東にあるがその分かれ道付近に大きな石が転がっている。もとは何かの形に組まれていたのではないかと想像させられる。「磐座」を意味するのではないかという説もあるが不明。
飛鳥寺
飛鳥寺には金堂の礎石が3個並んでいる。藤原京以前の都の建物は掘立て柱式の建築方法であったのに対し,寺は石の上に柱が乗り,屋根には瓦が置かれた。
本薬師寺(もとやくしじ)
平城遷都前に藤原京に薬師寺があった。680年(天武9年)に天武天皇が皇后の病気平癒を祈って造営したのが薬師寺。710年に薬師寺は現在ある地に移転した。ここは本薬師寺とよばれ,金堂と塔の礎石が残る。
奥山久米寺の礎石
奥山久米寺は古代の文献に見られない寺で沿革は不明。飛鳥資料館には礎石が置かれている。
山田寺回廊の礎石
山田寺は蘇我倉山田石川麻呂(そがのくらのやまだいしかわまろ)が641年に建て始め,7世紀後半に完成した寺。飛鳥資料館には発掘された東回廊の建物が展示されている。また庭に礎石が置いてある。
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