吉良上野介義央(きらこうずけのすけよしひさ) 吉良上野介 吉良義央(きらよしなか)[1641~1703年]

江戸で生まれ、幼名は三郎といいます。現在の愛知県西尾市吉良が領地で、「忠臣蔵」では吉良上野介は悪役のように描かれていますが、当時洪水に困っていた領民のため黄金堤を築くなど名君として慕われていました。
江戸城において播州赤穂(兵庫県)の藩主浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)が勅使饗応役(ちょくしきょうおうやく)として京都からの使者をもてなすこととなっていました。無礼があってはいけないので浅野内匠頭を指導する役がつけられていましたが、それが吉良上野介です。慣例では、浅野内匠頭が吉良上野介に高額な賄賂を渡して教えてもらうことになっていましたが、それが十分ではなく、吉良上野介は浅野内匠頭に冷たく接していました。もともと塩の生産について不満を持っていたこともあり、若気の至りから城中松の廊下で浅野内匠頭は吉良上野介を切りつけてしまいました。(切りつけた原因は諸説あります。)幸いにも吉良上野介のけがは大したことではありませんでしたが、城中で刀を抜いた浅野内匠頭は切腹となり、赤穂城は没収となりました。しかし、吉良上野介は無罪でした。この恨みが積もって大石内蔵助をはじめとする47人の赤穂の家臣たちは殿の命日の12月14日に吉良屋敷に討ち入り、吉良上野介を殺しました。この後赤穂の家臣たちは切腹しました。