阿部正弘(あべまさひろ)[1819~1857年]
江戸時代末期(幕末)の江戸幕府老中首座(最高責任者)です。備後福山藩(現在の広島県福山市)の第7代藩主でもありました。僅か25歳という異例の若さで老中首座に就任し、ペリー来航という国難に対し、開国と幕政改革を推し進めた中心人物です。
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平田靱負(ひらたゆきえ)[1704~1755年]
薩摩藩の家老で愛知・三重県境の木曽三川分流工事を指揮しました。(宝暦治水)これは難工事で、薩摩藩の出費も多く殉職した武士も多数いたため、工事の完成後に責任をとって自害しました。
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松尾芭蕉(まつおばしょう)[1644~1694年]
三重県伊賀市で生まれた俳人です。名は松尾宗房。諸国を旅しながら俳句をつくり、紀行文「野ざらし紀行」や「おくのほそ道」などをまとめました。
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小林一茶(こばやしいっさ)[1763~1827年]
小林弥太郎、長野県信濃町柏原の生まれで、江戸に奉公に出て俳諧を学びました。その後諸国を歩いて回り俳句を作りました。「我と来て遊べや親のない雀」は子供のころを思い出して作った作品です。
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林羅山(はやし らざん)[1583~1657年]
江戸時代 京都で生まれ、名は信勝(のぶかつ)といいます。建仁寺で仏教を学び、藤原惺窩(せいか)から朱子学を学びました。幼いころから秀才の羅山は惺窩の勧めもあり徳川家康に仕えることとなりました。家康、秀忠、家光、家綱4代の下でさらに才能を発揮し、江戸幕府の諸政策、外交、文書作成などに深く関わりました。
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賀茂真淵(かものまぶち)[1697~1769年]
静岡県浜松市の生まれで万葉集などを研究した国学者であり歌人です。父は生家に近い神社の神職をしていました。真淵は梅谷家の養子となりますが30歳で家を出て京都で荷田春満(かだのあずままろ)から国学を学びます。後に江戸に出て第8代将軍吉宗の次男の徳川宗武(とくがわむねたけ)に仕えながら国学を教えました。賀茂真淵は大和を訪れた…
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本居宣長(もとおりのりなが)([1730~1801年]
松阪で木綿問屋の子として生まれました。幼名は富之助です。成人して京都で医師となりますが、同時に「源氏物語」や「古事記」の研究も行っていました。1798年長年の研究の成果をまとめた「古事記伝」を完成し国学を確立しました。
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ウィリアム・アダムス・三浦按針(みうらあんじん)[1564~1620年]
大分県に漂着したオランダ船に水先案内人として乗船していたイギリス人です。その後神奈川に住みつき、幕府の外交顧問として働きました。
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中江藤樹(なかえとうじゅ)[1608~1648年]
中国で学び、朱子学に対抗する陽明学を日本で唱えた学者です。知識と行動は切り離せないものとする「知行合一」(ちこうごういつ)を基本的真理としています。
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二宮尊徳・金次郎(にのみやそんとく・きんじろう)[1787~1856年]
農村の生まれで、伯父の家で農業を手伝いながら寸暇惜しんで学問に励みました。成長して小田原藩士となり農業改革に取り組みました。尊徳が唱えた「報徳思想」は人として生きるための学問です。
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佐久間象山(さくましょうざん)[1811~1864年]
幕末 長野県で生まれました。江戸で朱子学や蘭学を学び開国論や公武合体を唱えました。自ら開いた塾では西洋砲術などを教え、勝海舟、吉田松陰、坂本龍馬らに影響を与えました。また、沿岸警備の重要性を「海防八策」として老中に提出しています。京都で攘夷派に暗殺されました。
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島津斉彬(しまづなりあきら)[1809~1859年]
薩摩藩主で中国や西洋の学問・技術に興味を持ち日本初の西洋式機械工場である「集成館」を建造しました。また、西郷隆盛や大久保利通など有能な下級武士を藩政に参加させました。
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角倉了以(すみのくらりょうい)[1554~1614]
京都の生まれ幼名は与七です。吉田光好(みつよし)が本名で、京都の商人でした。豊臣政権下で朱印状をもって海外との貿易(朱印船貿易)を行い利益を得ていました。大堰(おおい)川、富士川、高瀬川などの水路をつくりました。
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程順則(ていじゅんそく)[1663~1735年]
久米村で生まれ、名は名護寵文(なごちょうぶん)です。中国で学問を学び、教育者として琉球初の学校となる「明倫堂」を建設することを提言しました。
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徳川家康(とくがわいえやす)・松平元康(まつだいらもとやす)[1542~1616年]
愛知県岡崎で生まれ、幼名は竹千代といいます。元信、元康と名乗っていたこともありました。織田氏や今川氏の人質となって三河の外で少年期を過ごしました。豊臣政権下の五大老の筆頭となり、1600年の関ヶ原の戦いで石田三成を破って天下を統一し、1603年には征夷大将軍となって江戸に幕府を開きました。
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徳川光圀(とくがわみつくに)・水戸光圀(みとみつくに)・水戸黄門(みとこうもん)[1628~1700年]
徳川家光の時代、水戸藩の第2代藩主でした。「水戸黄門」としてテレビに登場し、天下の副将軍として諸国を回り悪を懲らしめていますが全て創作です。歴史書の編纂を命じ、没後に「大日本史」として完成しました。
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渡辺崋山(わたなべかざん)[1793~1841年]
愛知県田原藩の子として江戸で生まれ儒学、蘭学を学びました。1839年幕府の鎖国政策を批判したため、蛮社の獄で田原で蟄居(ちっきょ)させられました。
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弥次郎兵衛と喜多八(やじろべえときたはち)『東海道中膝栗毛』(とうかいどうちゅうひざくりげ)
十返舎一九が書いた「東海道中膝栗毛」(とうかいどうちゅうひざくりげ)は江戸に住んでいた弥次郎兵衛と喜多八が江戸から京都まで旅をる物語です。
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由井正雪(ゆい しょうせつ)[1605~1651年]
幕府で働くことを断わり塾を開いて浪人たちを集めて教えていました。幕府政治に不満を持つようになり、将軍が徳川家綱になると、幕府転覆(慶安の変)を計画しました。事前に計画が漏れ自害しました。
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吉良上野介義央(きらこうずけのすけよしひさ) 吉良上野介 吉良義央(きらよしなか)[1641~1703年]
江戸で生まれ、幼名は三郎といいます。現在の愛知県西尾市吉良が領地で、「忠臣蔵」では吉良上野介は悪役のように描かれていますが、当時洪水に困っていた領民のため黄金堤を築くなど名君として慕われていました。
江戸城において播州赤穂(兵庫県)の藩主浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)が勅使饗応役(ちょくしきょうおうやく)として京都か…
江戸城において播州赤穂(兵庫県)の藩主浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)が勅使饗応役(ちょくしきょうおうやく)として京都か…
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大黒屋光太夫(だいこくやこうだゆう)[1751~1828年]
大黒屋光太夫は伊勢国の若松村で生まれ、幼名は兵蔵と言います。伊勢国(三重県鈴鹿市白子)で廻船問屋の船頭として働いていました。1782年、光太夫32歳の冬、紀州藩の米を江戸まで運ぶことになり、鈴鹿の港から神昌丸に乗って出港しました。しかし、駿河湾で暴風雨に遭い漂流してしまいました。7か月漂流した後、アリューシャン列島のア…
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山田長政(やまだながまさ)[不明~1630年]
山田仁左衛門長政 出生地ははっきりしませんが、静岡県静岡市葵区の浅間神社付近(馬場町)ではないかとされています。日本が戦国時代、現在のタイ王国はシャムと呼ばれており、首都はアユタヤにありました。アユタヤは東南アジア各地との貿易でにぎわい、外国人の居住する町ができていました。その中の一つが日本人町です。江戸時代の始めに静…
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兵衛門(へいえもん)・兵太夫(へいだゆう)[生没年不明]( 滋賀県犬上郡甲良町呉竹)
兵衛門(へいえもん)と兵太夫(へいだゆう)は兄弟で、風水害や飢饉で呉竹村の住民が苦しんでいるのを見かねて、私財を村に寄進することで村人の生活を救いました。
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薩摩義士(宝暦治水)
1753年(宝暦3年)、幕府は薩摩藩に木曽川、長良川、揖斐川の洪水を防ぐための治水工事を命じました。家老の平田靱負は多くの薩摩藩士らとともに三川分流工事を行いました。しかし、これは難工事で、多くの藩士・農民の犠牲者がでました。それでも工事を続け、工事を完成させました。この工事に参加した薩摩藩士のことを薩摩義士とよんでい…
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姫 姫街道 本陣前公園(静岡県浜松市北区細江町気賀)
東海道の新居関を通らない道を脇街道といいます。この道は御油宿(愛知県豊川市)と見附宿(静岡県磐田市)を結ぶ道で浜名湖の北に位置する道です。
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細井平洲(ほそいへいしゅう)[1728~1801年]
細井徳民といいます。愛知県東海市で生まれました。名古屋や長崎などで学び、江戸で私塾(嚶鳴館 おうめいかん)を開き儒学を教えました。上杉鷹山の師であり、財政改革を成功させた鷹山に招かれ米沢で講義をしています。
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岡崎宿伝馬歴史プロムナード
岡崎は石の町です。旧東海道の街道の伝馬(てんま)交差点から伝馬通り1丁目交差点までの歩道には岡崎宿の様子を表現した20体の小さな石造があります。これらは岡崎にお住まいの石仏彫刻家鈴木登三信さんの作品です。
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支倉常長(はせくらつねなが)[1571~1622年]
山形県米沢市で生まれ、幼名は與市です。伊達正宗に仕え、慶長遣欧使節として、アメリカ大陸を経てスペインやイタリアを訪問し、国王やローマ教皇に謁見しました。
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林子平(はやししへい)[1738~1793年]
寛政の三奇人(かんせいのさんきじん 他に高山彦九郎、蒲生君平がいる)の一人で、世を治めて民を救うという経世論(けいせいろん)に基づき活動した人です。名は友直で仙台藩士でしたが、禄を返上して全国を行脚しながら見聞を広めていくうち、海外の諸事情を知るところとなりました。後に『海国兵談』を著しました。
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河合曾良(かわいそら)[1649~1710年]
長野県諏訪市で生まれました。俳諧師で松尾芭蕉とともに東北地方各地の旅にでかけ紀行文『曾良旅日記』(そらたびにっき)を残しています。これは松尾芭蕉の『奥の細道』研究の資料ともなっています。
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恩田民親(おんだたみちか)恩田木工(おんだもく)民親[1717~1762年]
長野県長野市松代町で生まれ、幼名は佐吉です。30歳という若さで松代藩家老となり、それまで困窮していた藩財政の立て直しに取りかかりました。綱紀粛正を始め、倹約・文武奨励を進めるなど精力的に活躍しましたが、志半ばで病死しました。
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上杉鷹山(うえすぎようざん)上杉治憲(うえすぎはるのり)[1751~1822年]
宮崎県の高鍋藩(たかなべはん)の藩主の子として生まれ、幼名は松三郎です。10歳で米沢藩主の養子となりました。米沢藩第9代の藩主となり、藩領返上寸前となっていた藩財政の改革に取り組み、古くからの重臣らの反対を押し切り、悪習の廃止と徹底した倹約に努めました。これらにより財政立て直しに成功し、名君と呼ばれました。
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ヤン・ヨーステン(やんよーすてん)[1556~1623年]
ヤン・ヨーステン・ファン・ローデンスタイン(Jan Joosten van Loodensteyn)オランダ船リーフデ号でウイリアムアダムス(三浦按針)らと日本に来ましたが、現在の大分県に漂着しました。その後、江戸に屋敷を構え、朱印船貿易を行いました。八重洲の地名のもとになっています。
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春日局(斎藤福)(かすがのつぼね(さいとう ふく)[1579~1643年]
美濃の斉藤氏の一族の父斎藤利三は丹波で明智氏に仕えており、福は現在の兵庫県丹波市にある興禅寺(こうぜんじ)で生まれました。本能寺の変と続く山崎の戦い以降、福は母方の実家のある美濃の稲葉家で過ごしました。その後、稲葉正成の妻となり、その素養が認められ将軍家の乳母となるため離縁し江戸城に入りました。そして、徳川秀忠の子の竹…
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大石内蔵助・大石良雄(おおいしくらのすけ・おおいしよしお)[1659~1703年]
現在の兵庫県で生まれ、幼名は松之丞(他説あり)、赤穂藩(あこうはん)の家老です。藩主浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)が江戸において朝廷の勅使を接待する役に任ぜられ、その指南役が吉良氏でした。元禄14年3月14日、江戸城での儀式の前、松之廊下で浅野内匠頭が吉良氏に切りつけました。このため切腹を命じられ、浅野家はお家断絶と…
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石川丈山(いしかわじょうざん)[1583~1672年]
現在の愛知県安城市で松平家の家臣の子として生まれました。本名は重之、幼いころより文武両道に優れていたと伝えられています。武士として徳川家康に仕えましたが大坂夏の陣後は浪人として京都で暮らしました。林羅山と交流があり、藤原惺窩(ふじわらせいか)を師として儒学を学びました。その後、武士として、和歌山や広島で暮らすこととなり…
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桂昌院(けいしょういん)[1627~1705年]
京都の生まれです。3代将軍徳川家光の側室となっていたお万の方(永光院)に仕えていましたが、家光に見初められ側室となりました。お玉の方と呼ばれ、5代将軍綱吉の生母となりました。綱吉は「生類憐れみの令」を出しますが、これに助力したのが母の桂昌院と言われています。
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養珠院 於萬の方(ようじゅいん おまんのかた)[1580~1653年]
房総半島の勝浦城主の娘として生まれました。徳川家康の側室となり、徳川頼宣(紀州徳川家)、徳川頼房(水戸徳川家)を生みました。
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新井白石(あらいはくせき)[1657~1725年]
明暦3年、上総国久留里藩士の新井正済の長男として生まれました。名は君美(きんみ)、勘解由(かげゆ)は通称。江戸時代の朱子学者ですが政治家、詩人でもありました。6代将軍徳川家宣(いえのぶ)、7代将軍家継(いえつぐ)に仕えて幕政を補佐しました。武力によらない教化または法によって国を治める文治政治を行い、正徳年間に新井白石が…
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徳川吉宗(とくがわよしむね)[1684~1751年]
紀州藩の4男として生まれました。幼名は源六、のち頼方、藩主となって吉宗と改名しました。江戸幕府8代将軍で、テレビの時代劇では「暴れん坊将軍」として人気があります。父と兄が亡くなり、紀州藩主となりました。7代将軍家継が8歳で亡くなったため、江戸で将軍職を継ぐ者がおらず、徳川御三家の一つの紀州藩から吉宗が将軍職を継ぐことと…
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高田屋嘉兵衛(たかたやかへえ)[1769~1827年]
淡路島の洲本市で生まれ、幼名は菊弥です。現在の神戸で船に乗り廻船商人として各地を回りました。北陸や関西から蝦夷地への航路をつくり、箱館(函館)を拠点として商業を発展、財を築きました。また、幕府が募集した択捉(えとろふ)島探検に参加しました。
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真田幸貫(さなだゆきつら)[1791~1852年]
江戸時代に寛政の改革を行った松平定信(楽翁)の子として江戸で生まれました。後に松代藩真田家の養子となり第8代藩主として活躍しました。また、佐久間象山を顧問とし藩政改革に努めました。天保の改革を行った水野忠邦の尽力により、幕府の老中となりました。
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吉川広家 きっかわひろいえ[1561~1625]
吉川広家は吉川元春(きっかわもとはる)の三男として生まれました。吉川元春は中国地方を治めていた毛利元就の次男で、吉川広家は毛利元就の孫になります。幼少期はうつけ者と呼ばれていましたが、武芸に励み、わずか9歳で初陣を飾りました。吉川広家が家督を継承すると豊臣秀吉に仕えて功績を挙げました。1600年(慶長5年)に関ヶ原の戦…
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田沼意次(たぬまおきつぐ)[1719~1788]
紀州藩士田沼意行の長男として生まれ、幼名は龍助。10代将軍徳川家治の時代に側用人から老中になり幕府政治の改革に取り組みました。意次は幕府財政の建て直しや貨幣の発鋳、農業から重商政策への転換、水田開発などを行いました。
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松平直政(まつだいら なおまさ)[1601~1666]
江戸時代前期の大名で、出雲松江藩の初代藩主です。徳川家康の孫にあたり、勇猛な武将として、また名君として松江の発展に寄与しました。父は結城秀康(徳川家康の次男)、祖父は徳川家康。茶道を愛する文化的な一面もあり、不昧流(ふまいりゅう)の基礎を作ったとも言われます。松江城内には、初陣の際の雄姿を描いた「松平直政公騎馬像」が建…
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間宮林蔵(まみやりんぞう)[1775~1844]
常陸国筑波郡上平柳村(現在の茨城県つくばみらい市)出身の江戸時代後期の探検家です。伊能忠敬に測量技術を学び、北方の探検で大きな成果を上げました。
最大の功績は、1808年からの樺太探検により、樺太が大陸と分断された「島」であることを証明したことです。この功績により、二つの陸地を隔てる海峡は世界的に「間宮海峡」と命名され…
最大の功績は、1808年からの樺太探検により、樺太が大陸と分断された「島」であることを証明したことです。この功績により、二つの陸地を隔てる海峡は世界的に「間宮海峡」と命名され…
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松浦武四郎(まつうら たけしろう)[1818~1888]
若い頃から日本全国を旅したのち、ロシアの南下によって北方の緊張が高まると、「日本の北方を自らの目で確かめなければならない」という強い使命感を抱きました。生涯で6度にわたり蝦夷地(現在の北海道やサハリン、千島列島)を探索し、前人未到の奥地まで足を踏み入れて詳細な記録を残しました。明治維新後、明治政府の「蝦夷地開拓判官」に…
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