倭国の防衛

日本各地の古代山城を紹介します

鬼ノ城 きのじょう
讃岐城山城 さぬききやまのき
屋嶋城 やしまのき
金田城 かねたのき
高安城 たかやすのき
鞠智城 きくちじょう
大野城 おおのじょう
基肄城 きいじょう
水城 みずき

・杷木神籠石・おつぼ山神籠石
・石城山神籠石 いわきやまじんごいし
永納山城 えいのうざん
 古代の山城は対外的な防衛目的で西日本に造られました。代表的な山城は九州にあり,大野城(おおのぎ),基肄(きい)城など日本書紀にもその名前を見ることができます。飛鳥時代,白村江の戦いで敗れた当時の朝廷は,百済から亡命した多くの人たちを登用し,各地に城を築かせました。現在日本に残っている山城は30もあり,そのうち23カ所は確認することができています。しかし,滋賀県の三尾城(みおのき)などのように,文献に見られても,所在が確定できないものもあります。

 日本書紀によると, 664年 水城,665年 長門城 大野城 基肄城,667年 高安城 屋島城 金田城などの山城が築かれたと記載されていますが,実際はこれら以外にも白村江での敗戦の後に築かれた山城が各地に残っています。これらは自然の山を利用していることや多くの石を積んで石垣を築造しているなどその形態や構成が朝鮮半島で見られる山城に似ていることから,百済から亡命してきた高官たちの指揮によって築かれたものとされています。石垣を築造して守りを固める方法は,古代の山城独特のものでした。(戦国時代になって,安土城のような石垣を築く城が姿を見せます。)
 山城は,城として外敵からの攻撃に備えるための構造をしていますが,城域内では掘立柱建物跡や水門跡も見られ,食料を蓄えておいて,いざというときに役人や兵士たちが城にたてこもって戦うことができるようにもなっていました。

日本の朝鮮式山城・神籠石一覧
(「城」は「~じょう」とも「~のき」とも読むことがある。「神籠石:こうごいし」は朝鮮式山城には見られない石列で,もとは砦のようなものを形成していたとも考えられる。しかし,石を土台にして土塁を築き,その前に柵が立てられていた跡が発見されている所もあり,山城を形成していたと考えられる。)
古代の山城を大別すると,『日本書紀』などの文献に記載されているものを「朝鮮式山城」とよび,文献にないものを「神籠石(じんごいし)系山城」とよんでいます。
朝鮮式山城
(文献に記載されているもの)
金田城 かねたのき(長崎県下県郡美津島町黒潮:対馬)
鞠智城 きくちじょう:くくちじょう(熊本県菊鹿町米原,菊池市木野)
基肆城 きいじょう(佐賀県三養基郡基山町小倉,福岡県筑紫野市山口)
大野城 おおのじょう(福岡県大野城市瓦田,太宰府市太宰府)
屋嶋城 やしまのき(香川県高松市屋島)
高安城 たかやすのき(奈良県生駒郡平群町,大阪府八尾市)
三尾城 みおのき(推定:滋賀県高島郡高島町)
長門城 ながとのき(推定:山口県下関市)
常城 つねき(推定:広島県福山市新市町)
茨城 いばらき(推定:広島県福山市蔵王)

稲積城 いなづみのき(推定:福岡県糸島郡志摩町)
三野城 みのじょう(推定:福岡県福岡市博多区美野島)
神籠石系山城
(文献にないもの)
おつぼ山神籠石 (佐賀県武雄市橘町小野原)
帯隈山神籠石 おぶくまやま(佐賀県佐賀市久保泉町,神埼市神埼町)
女山神籠石 ぞやま(福岡県山門郡瀬高町大草字女山) 
高良山神籠石 こうらさん(福岡県久留米市御井町高良山)
雷山神籠石 らいざん(福岡県前原市雷山)
鹿毛馬神籠石 かけのうま(福岡県嘉穂郡頴田町鹿毛馬)
御所ヶ谷神籠石 ごしょがたに(福岡県行橋市津積)
宮地岳山城 みやぢだけ(福岡県筑紫野市)
杷木神籠石 はき(福岡県朝倉市林田)      
石城山神籠石 いわきやま(山口県熊毛郡大和町石城)
大迴小迴山城 おおめぐりこめぐり(岡山県岡山市草ヶ部)
鬼ノ城 きの(岡山県総社市奥坂,黒尾)
永納山城 えいのうざん(愛媛県西条市河原津)     
讃岐城山城 さぬききやま(香川県坂出市西庄町 他)
播磨城山城 はりまきのやま(兵庫県龍野市揖西町中垣内,新宮町馬立)   
唐原神籠石 とうばる(福岡県築上郡大平村下唐原,土佐井)
中国式山城 怡土城 いとじょう(福岡県前原市大門)
その他(山城以外) 水城 みずき(太宰府市国分)-石積みの城ではなく土塁
この表の作成にあたり,熊本県にある温故創生館(歴史公園鞠智城)の展示資料,
『古代山城 鬼ノ城』(総社市教育委員会)及び百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』を参考にした。

大野城 鬼ノ城 鞠智城

拡大図
基肄城 金田城 高安城

倭国の防衛強化
 

現在の大津市
664年2月
★「甲子の宣:かっしのせん(甲子の革命令)」を出す。これは豪族の再編成を含めた国政改革。

★対馬・壱岐・筑紫に防人(さきもり-東日本出身の兵隊)や通信手段としての「烽(とぶひ)」を置く。

戦前に造った山城を強固にした。

博多湾岸にある那津官家(なのつのみやけ-筑紫大宰)を南の内陸部(現太宰府市)に移転した。

百済からの亡命者の指導によって,大宰府を守るための水城を築いた。

665年8月
新たに,大宰府の役人たちが逃げ込むための城として大野城や基肄(きい)城,長門城などの朝鮮式山城を築いた。11月,さらに大和に高安城,讃岐に屋島城,対馬に金田城を築いた。

667年
飛鳥から大津に都を遷都し,668年1月天智天皇が即位。
大津遷都には多くの豪族が不満を持った。常に急進的な政治を行う中大兄皇子の一大決心だったが,大和の豪族たちは大反対した。

大津京模型(大津歴史博物館許可)
 「魏志倭人伝」に3世紀の日本の様子が書かれています。その中に「伊都国」に「一大卒」という外交担当の役所が置かれていたとありますが,これが大宰府の始まりという説があります。また,那津(なのつ)に軍事・地方行政を担当する官家(みやけ)が置かれていたと日本書紀に書かれており,これを大宰府の前身とする説もあります。

 「大宰府」は「おおみこともちのつかさ」という読み方をすることもありますが,漢字表記は次のように区別しています。
大宰府」-当時の役所を意味する場合に表記
太宰府」-地名等の固有名詞の場合の表記
 政庁は「都府楼(とふろう)」とよぶことがあります。

大宰府(福岡県太宰府市)
 7世紀後半,大和王権は「大宰府政庁を設置して九州全体を治めさせました。防衛,外交と大宰府は重要な役所でした。
最初の建物(第Ⅰ期)は礎石を使用しない掘立式で,都の宮殿風に建て替えられたのは8世紀に入ってから(第Ⅱ期)です。その後,941年の藤原純友の乱で焼失したため再建されました(第Ⅲ期)。現在見えている礎石は第Ⅲ期のものです。

・白村江の戦いで敗戦後,「大宰府は」を守るため,百済からの亡命高官(日本書紀にある百済人の名-憶礼福留(おくらいふくる),四比福夫(しひふくぶ)らの指導によって,水城や大野城などを築かせました。
 

水城(みずき)
  博多湾に上陸した敵が福岡平野から大宰府を攻撃してくることを想定し,664年に築かれた土塁です。長さは1.2㎞,幅77m,高さ9mあります。側面の斜面角度は70°です。現在は埋め立てられていますが,土塁の北側(福岡側)には幅60mの壕(ほり)が造られていました。
(福岡県太宰府市)
地図
 
 現在は東門付近の一部が公園として整備され,水城上に造られた展望台に上ると水城のつながりを見ることができます。 


太宰府市内住宅地よりの展望


東門跡から上った展望台から見る

   
 水城上にはその境界を示す石碑が設置されています。 
 
水城跡石碑
 
東門礎石


水城復元図


水城断面図

水城の下に木樋(もくひ)を通し,博多側に幅60m,深さ4mの堀を造って水を貯えていました。 大宰府側で御笠川から取水しました。


水城(太宰府側)


水城(博多側)

「水城」は城ではなく,「万里の長城」と同じで壁の役割を持っています。
水城復元図及び断面図は,大宰府展示館にあるパネルやパンフレットを参考に作画しました。

大野城 (四王寺山:しおうじやま)
(665年築かれる)(福岡県太宰府市・大野城市・宇美町)地図

大宰府政庁跡と四王寺山
標高410mの山全体が古代の山城となっています
『日本書紀』によると,天智4年(665年)8月に百済から逃亡してきた憶礼福留(おくらいふくりゅう)と四比福夫(しひふくふ)を筑紫国に遣わして大野・基肄城を築かせたことが書かれています。 
 大野城は6㎞以上にもなる土塁に囲まれた山城で,そのうち,谷を渡る場所は石積みによって造られた石塁。土塁は版築(はんちく)工法といわれる,層状に土をつき固めた構造になっています。山中から70棟ほどの建物跡が見つかっており,ほとんどが高床式の倉庫だったのではないかといわれています。食糧や武器などを入れていたのではないでしょうか。
 


山頂付近
土塁跡


土塁の石が露出している


土塁 
 
版築
 土塁は版築(はんちく)とよばれる工法で造られました。丸太と板で木枠を作り,その中に性質の違った土を押し固めながら交互に入れていきます。 
 
建物跡礎石群
 
建物跡礎石群
山頂を土塁や石垣で囲み,食糧倉庫や武器庫・兵舎などを建てました。全体で70もの倉庫跡が見つかっています。ここで籠城し,防戦できるようにしました。 
 
建物跡礎石群

建物跡礎石群 
大野城尾花地区には10棟の倉庫跡が確認されています。碁盤目状に並べられた礎石列を見ることができます。
  百間石垣
  起伏の激しい山のため,谷の急斜面は土塁でなく,石塁と石垣を組み合わせて城壁が造られました。ここは平均の高さ4m,長さは約180mほどあります。そのため百間石垣と名付けられています。現在は大変崩れやすくなっており,石垣上の登山道を歩くことはできません。
   

四王寺川の中から礎石が見つかっていることから,この付近に門があったことがわかりました。 


大宰府口城門


鏡ケ池

大野城にある4つの城門のうちの1つ 鏡ケ池は当時の井戸の跡と言われています。

基肄(きい)城 (基山:きやま)
(665年築かれる) 
地図(佐賀県基山町) ここに駐車場があります

基山

 『日本書紀』によると,天智4年(665年)8月に百済から逃亡してきた憶礼福留(おくらいふくりゅう)と四比福夫(しひふくふ)を筑紫国に遣わして大野・基肄城を築かせたことが書かれています。
 基山は佐賀県東部,背振山地の東に位置します。 基肄城は西峯の基山・東峰の坊住山(ぼうじゅうやま)(標高405m)の稜線に土塁を築いて造られました。
 




  山城全体は山の稜線に沿って約4㎞の長さの土塁で囲まれています。
   
所々土塁の石がむき出しになっています。
城内の平らな部分は車路とよばれています。
   
頂上にある基肄城について書かれた石碑
展望台は2カ所あります。ここからは眼下に広大な町を見渡すことができます。 
   
山頂にはところどころに大きな石が転がっています。
天気のよい日は,博多から遠く有明方面まで眺めることができます。 
 
いものがんき石碑
 

いものがんき
「いものがんき」は二つの小山をつないだ線上にある3つの隆起で,形が芋畑の畝(うね)に似ています。 
 
基山山頂
土塁
山頂には石の上に土をかぶせて造られたた土塁が残っています。よく見ると石が露出していました。
このように,断面が台形になっている土塁を「夾築(きょうちく)構造」
とよんでいます。

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霊霊石(たまたまいし)
基山山頂にある石で荒穂神社の
御神体とされていました。
 
霊霊石より南に降りる場所の石積み
高天原からやってきた荒穂神社の祭神五十猛神(いそたけるのかみ)が
下界で初めて木々の種をまいたところが基山付近とされています。 

 


頂上にある天智天皇欽仰の碑


頂上を少し降りた展望台から見る
基肄(きい)城跡の水門 地図(佐賀県基山町小倉)
 水門跡は山城の南に位置しています。谷を流れる川を止める形で石垣が築かれています。
 ここへ行くには住吉神社を目指して農道を走ります。
   
 水門からは今でも多くの水が流れています。
   
 水門の高さ1.4m,幅1m,奥行き9.5m
水門の上には石垣があり,その高さは8.5m,長さは26mです。
   
 水門付近に門が造られていました。

鞠智城(きくちじょう)
(熊本県鹿本郡菊鹿町米原,菊池市堀切)
 
鼓楼
この八角形の建物様式は朝鮮半島でもみられるものです
 熊本県の内陸部にある鞠智城は,九州の防衛線であった大野城や基肄城からは南へ約80㎞も入り込んだ所に築かれました。また,九州西海岸の菊池川河口からも約30㎞離れています。「鞠智」は「きくち」と読んでいますが,もとは「くくち」でした。平安時代に「菊池城院」に名称が変更されたため,県も「鞠智」と表記して「きくち」と読んでいます。しかし,これについては元の「くくち」に読みを戻す予定があるそうです。
 築城がいつだったかは記録がなく,文献で初めてこの城名が登場するのが『続日本紀』の文武天皇2年(698年)5月25日です。これによると,「大宰府に命じて,大野・基肄・鞠智の3城を修理させた。」とあります。ということは,既にこの時,鞠智城は築かれて,存在していたことになります。『日本書紀』によると,天智4年(665年)8月に百済から逃亡してきた憶礼福留(おくらいふくりゅう)と四比福夫(しひふくふ)を筑紫国に遣わして大野・基肄城を築かせたことが書かれています。鞠智城も彼ら百済人の指導によって同時期に築かれたのではないかと考えられます。これを裏付けるものとして,2008年10月,この遺跡の発掘調査によって青銅製の菩薩立像が出土しました。全長12.7cm(像の部分約9.7cm)、幅3cmの青銅製菩薩立像です。形から推測して7世紀に百済で作られた仏像とされています。
 内陸部にあるこの城の役目は,有事の際に前線基地としての北九州沿岸に兵士を送ることにあります。ここは待機兵士の宿舎としての役割があったようです。九州の兵士と言えば「防人(さきもり)」と呼ばれる人たちが全国から集まってきていました。当時は3年間の兵役が義務づけられており,九州各地に配属されていました。また,発掘調査によって明らかになったこととして,武器や食料の保存をしていたことがあります。ここからそれらも送り出していたのでしょう。鞠智城は支援基地としての役割をもっていたのです。

復元鼓楼

城の内郭は土塁で囲まれていた
 右はシンボルともなっている高さ15.8mの八角形建物で鼓楼でした。当時の建物としては珍しく,屋根に百済式の瓦を葺いています。太鼓を置いて連絡用に使っていたらしい。
 城の外郭線は質の違う土砂を交互に積み上げ,突き固めて造る版築(はんちく)という工法によって築かれていました。この工法は大陸から伝わった技術でこの時代の古墳や史跡によく見られます。

兵舎

米倉
板葺き屋根の建物で土壁,突き上げ式の窓があります。 校倉造りの食料庫が建てられていました。


鬼城山:鬼ノ城(きのじょうざん:きのじょう)
(岡山県総社市黒尾・奥坂)地図



 鬼ノ城は吉備高原の南端,標高400mに位置し,かつては眼下に総社平野・瀬戸内海を見下ろす要衝でした。温羅伝説があり,鬼の住むところと言われてきましたが,朝鮮式山城と同じ役割を持つ神籠石(こうごいし)式の古代の城とわかりました。

総社市奥坂より鬼城山を見る 晴れた日は瀬戸内海や四国までも見える
 鬼ノ城は日本書紀などの文献に記載されてはいませんが,大野城や基肄城などと同じ山城です。
 鬼ノ城縁起によると,温羅(うら)と言う名前の異国の鬼神が吉備に飛来してきて新山(にいやま:総社市奥坂)に住み着いたとあります。彼は百済の王子だといいますが,身長は一丈四尺(4m以上),両眼はらんらんと光り輝き,鬼のように強く,性格は凶暴でした。婦女子を襲ったり,西国から都へ送られる物資を奪ったりしたため人々から鬼と恐れられていたのです。これを知った大和政権(大王)はこの鬼を退治させるために勇敢な若武者を吉備に送りました。彼の名前は五十狭斧彦命(いさせりひこのみこと),のちに吉備津彦命(きびつひこのみこと)として吉備津神社や吉備津彦神社に祀られるます。鬼ノ城のある吉備路を舞台に,激しい戦いがありました。参考 桃太郎伝説
城壁に沿って鬼ノ城1周を歩くことができます。

角楼(かくろう)跡 復元前2002年

2007年
 鬼城山ビジターセンター前の長い坂道を上って最初に見るのが角楼です。調査の結果これは城門ではなく,この一角が突出しているため,西門を守る役目を持った防御施設的な遺構と考えられています。

西門跡 2002年

2007年
 これまでの調査で,鬼ノ城には城門が4カ所あったことがわかっています。最大の門である西門は幅12.3m,奥行き8.3mの大きな門で,12本の角形の掘立柱で建てられていました。通路には石が敷き詰められ,柱を固定するために石が加工されていました。また,版築によって門の両側に盛り土をし,柱を土中に埋めていました。
南門
西門と同じように12本の角柱が建つ構造になっていました。
幅12.3m,奥行き8.3m
東門
6本の丸柱からなる掘立柱城門で,4つある門のうち最初に発掘されました。
幅3.3m,奥行き5.6m
北門
角・丸の柱を8本使っています。通路に排水溝が設置されていました。
幅4m,奥行き9.38m

北門前には石垣が築かれており,敵の侵入が容易にはできないようになっていました。
石塁・土塁
 石垣は全体で6カ所あり,特に南側~東側に多く見られます。瀬戸内海から見たとき,北に位置する鬼ノ城は目立って堅牢な城に見えたのではないでしょうか。
 石垣の外と中には石が敷き詰められています。
このような大規模な敷石は,古代の山城では鬼ノ城にしかないそうです。
 鬼ノ城は神籠石系の山城に属します。写真の石列は鬼ノ城を含めた多くの古代山城で見ることができます。。
 鬼ノ城は多くの部分を版築土塁で囲んでいます。その高さは5~7mあり,80度近い角度をつけて造られました。そのため,容易に城内に入ることはできません。
 復元された角楼で見られるように,土を一層ごとにつき固めていくことを版築工法といいます。縞模様は一層ごとにつき固めたときにできます。
 この辺りの山は「岩山」と呼ばれるように,巨岩が多く存在します。鬼ノ城の北にある岩屋は鬼が住んでいたと伝えられていますが,様々に名付けられた巨岩があります。鬼ノ城の自然石も巧みに利用されました。
 城内にある4つの谷から出る水の処理のため,水門が6か所設けられました。下部は石垣積み,上部は土積み。写真の水門は鬼ノ城の特徴を示すものです。第2~5水門は,石垣の上に排水溝が造られました。
「屏風折れの石垣」
 「屏風折れの石垣」は鬼ノ城のシンボル的な石垣で,遠くからも見ることができます。これは場内2カ所ある突出部の一つです。この上からの眺めはよく,監視するには絶好の場所です。
建物跡
 城内に7棟の建物跡が見つかっていますが,そのうち4棟は食料の貯蔵庫ではないかと考えられています。建物跡からはかめ,つぼ,などの土器や硯が見つかりました。この施設は城郭のほぼ中央に位置しています。また,東門近くからは鍛冶場跡も見つかっています。
 


学習施設より西門を見る

金田城(かねだのき,かなたのき)
(長崎県対馬美津島町)

 日本海に浮かぶ対馬は朝鮮半島まで約50㎞,国境の島であり,古代倭国の国防の最前線となった島です。ここにも山城が築かれました。金田城は対馬城山(275m)にあり,国指定特別史跡に指定されています。
 対馬は海流が激しくぶつかるところにあり,海岸線は急な斜面の岩山が続くため,島全体が自然の要塞となっているように見えます。
 対馬へは博多から九州郵船の高速船で2時間の船旅となります。厳原港から城山登山口まで車で30分,途中暗く細い道を登ります。城山への入り口と城山登山口には金文字の立派な石碑と案内板が立っています。
 登山口から登り始めてすぐに沢蟹の群れに出会いましたが,登りがきつく,ゆっくり見ている余裕がありません。日露戦争の時代,この山に旧陸軍が軍施設を置いたそうです。そのため道が整備され,現在は登山道となっています。
 急ぎ20分歩いて石垣の残る門跡に到着しました。石垣はかなり崩れていますが,山全体を囲っていたことが想像できます。
 城域東側の海岸近く,標高30mほどの谷間の3か所に城戸(城門)跡が残っています。
 日帰りで対馬を見ることには無理がありました。レンタカーを走らせ,ピンポイントで史跡を見ましたが,帰りのフェリーの時間が気になってゆっくり見ることができませんでした。案内板に従って,時計とにらめっこしながらのランニング軽登山はかなりきつい体験となりました。

屋嶋城(やしまのき)
香川県高松市屋島 地図

外郭線は断崖です。古代山城「屋島城」は
この断崖と,それが切れたところに作られた
石塁・土塁などによって上部の平坦な場所を囲んでいます。
(この図は,屋島を簡略して描いています。)
 この山城の存在が確認されたのはごく最近のことです。史跡天然記念物屋島基礎調査事業として高松市教育委員会が平成7年度から実施している確認調査によって古代山城屋島城の姿が明らかとなってきました。そして,平成10年1月に南嶺南西斜面に屋島城の外郭線となる石塁が発見されたことで確実なものとなったのです。

屋島西側全景(フィッシュアイレンズを使用して,高松東港付近防波堤上より撮影)
左 北嶺  右 南嶺

 香川県の東部,瀬戸内海に面したところに屋島(標高293m)と呼ばれるところがあります。付近一帯は平安時代に源平の合戦の戦場となった場所です。
 四国には2か所で山城の存在が確認されています。その一つが屋嶋城で,日本書紀にもその名前を見ることができます。(もう一つは,香川県坂出市にある讃岐城山城です。)こちらは日本書紀に記述がありません。
  日本書紀には667年,倭国高安城(やまとのくにのたかやすのき)や対馬国金田城(つしまのくにのかなたのき)と同じく讃岐国山田郡(さぬきのくにやまだのこおり)に屋島城を築いたことが書かれています。しかし,その遺構は近年までわかりませんでした。最近の調査で,標高270mラインの断崖を自然の砦とした古代山城の存在がはっきりしてきました。石塁や土塁,水門の存在が確認され,また,山城としては大規模な城門があったこともわかっています。現在はまだ整備されておらず,また,調査中でもあり,見つかった城門跡を簡単に見ることはできません。しかし,高松市教育委員会のご協力を得て,その遺構を見ることができました。現在見つかっている遺構のうち,主なものを紹介します。
浦生(うろ)石塁

写真の中程に石塁があるようです
 標高100mの地点に全長約100mの石塁があります。
 昔から屋島の北領と南領の間にある浦生(うろ)の人たちは,集落から東の方向,屋島の頂上に向かって上った標高100mあたりに石垣があることを知っていましたが,それが何を意味するのかははっきりしていませんでした。
有料道路のトンネルに入る手前から集落を見下ろした竹藪あたりと教えていただきましたが,石塁をはっきりとは確認できませんでした。
土塁(北斜面)

土塁

土塁に残る石積み
 南領の北斜面にあります。全長約200mの土塁がわかっています。一部石積みの遺構も確認されています。
 屋嶋城の土塁は山の斜面を利用して造られており,これを「内托構造」とよんでいます。
       
      /斜面
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北水門
 水族館の北側にあったようですが,土塁が確認できます。
南水門・石塁



南側斜面
 水門跡としての石積みと土塁遺構があるようです。
城門
   城門南部を北から撮影
城門中央から北部を南から撮影
左上が遊歩道側(東),右は(西)城門開口部,奥へ外郭の石積み,左は岩盤があります。そのため,門を入ると右下(北)に門道が折れています。  門の背面に岩盤・土塁があり,門から直進して城内に入ることができません。門道は北側へ折れていることから,敵が容易に中に侵入しないような構造になっています。

城門全体を南側から撮影
 
城門を上(東)から見ています       北側壁背面石積み
 幅5.4m,奥行き10mの門だったと考えられています。この規模から,岡山県の鬼ノ城のシンボルともなっている西門に似た形ではないかと推測されます。しかし,鬼ノ城との違いは「懸門(けんもん)」と呼ばれる構造にあります。城門前の石積みが,城壁とつながっており,門の入り口に段が設けられています。
 城門前の石積みは下部が土に埋もれ,上部は崩壊しています。崩れているものを復元すると,高さが3mぐらいになるそうです。
 他の古代山城で見られるようなきれいな石積みが残っているわけではありません。一部を除き,随分壊れた形になっています。これは,天智天皇の時代が終わってここが廃城となってから整備されない状態が続き,やがて北面の土砂が崩れたためと考えられます。
 
城門南側石積み               城門南側壁につながる外郭の石積み 
東西方向の石積みも確認されており,南側からは侵入ができないようになっています。
 
城門背面の列石
曲線を描いています
背面の山の斜面
遊歩道方向を見上げています

  
城門と排水溝 奥は城門前の石積み
 城門の床面に排水設備があります。山の岩盤を削って斜めにしてあることから門内部にたまる雨水を,門の床面を削った排水溝を使って流す仕組みになっています。写真は門上の岩盤から門下の谷方向を見ています。
 平成15年度調査では,城門から遺物が出土しているようです。それらは土器の一部と考えられています。


城門跡全体
 城門背後に土塁がありますが,敵の侵入を防いでいます。また,北側土塁の一部が外側に張り出しています。これは,張り出し部から敵に対して弓を射る雉城(ちじょう)です。全体写真でも平坦な部分が確認できますが,城門通路の一部とも考えられます。
土塁(東斜面)

屋島南嶺
 屋島を離れたところから見ると分かるのですが,山頂付近は断崖となっていて,ここが自然の要害(ようがい)になっていることがわかります。 
 南嶺の東面を防備するための土塁がありますが,写真ではわかりません。
貯水池

血の池(瑠璃宝池)
 血の池(瑠璃宝池)を含めた一帯が,当時,飲料水などを確保するための貯水池ではなかったかと考えられています。
屋島寺



屋島寺
 四国霊場84番札所が屋島寺です。
 この寺の宝物館を建てるときに,礎石などの遺構が見つかったようです。
 この平坦な場所に兵舎,貯蔵庫などの建物があったのではないでしょうか。


瀬戸内海・女木島
 この山城は瀬戸内海を見下ろす好位置にあります。もし,敵が船で攻めてくるとしたら,下関から瀬戸内海に入り,屋島の眼前を横切って大和に向かいます。そのため,この屋嶋城は瀬戸内海最後の最大の防衛線でもあったと考えられます。遺構の規模から推測して,北の鬼ノ城と,南からは城山城や屋島城が瀬戸内海をはさんで監視をしていたのです。

 屋島城の作成に当たり,高松市教育委員会の文化部文化振興課の山元さんに現地の案内をしていただきました。今後さらに調査し,より詳しい解説を加筆していく予定です。現地写真撮影および掲載の許可を得て紹介しています。

城山城(きやまのき)
香川県坂出市 地図

山頂の城山城案内板を参考に作成した配置図
緑色の部分はゴルフコースです
太い実線は車が通行可能な道路(幅は狭い)
細い実線は「車道」と呼ばれる帯状の遺構です

飯山町から撮影  右 城山

 香川県坂出市にある城山は標高462.3m 瀬戸大橋の与島PAからもよく見えます。逆に,城山からも瀬戸内海が監視できた位置にあります。城山城は昭和26年に国の史跡として指定されました。山頂の平坦な場所を取り囲むように石塁がはりめぐらされています。
 城山頂上へは,坂出市の西庄町,川津町,加茂町からの上り道がありますが,西庄町,川津町からはすぐに1本に合流します。途中高松カントリークラブの広い敷地を見ることになります。ここまでの道はよく整備されています。ここからの上りは道幅が狭くなりますが,車がすれ違うためのスペースも設けられていますから走りやすいです。ただ,頂上までの道路脇に土塁や石塁がありますから,それらを見るためにはやや広い場所に車を止めておくことになるでしょう。

瀬戸大橋 与島PAから見た城山
 史跡の多くは,ゴルフ場の敷地内にあります。そのため,必ずゴルフ場の管理者に許可をもらって見学することになります。また,道が複雑に走っていたり,プレーしている人がいたりしますので,係の方に案内していただくのがよいようです。今回はカントリークラブの手島さんに案内をお願いしました。ゴルフ場敷地外の史跡も案内していただき,また,お話も伺うことができました。水門・城門の規模を示す数値は坂出市教育委員会社会教育課に問い合わせて聞いたものです。

城山山頂から見た瀬戸大橋・瀬戸内海・本州
土塁
 道路脇の土塁の案内表示は確認できましたが,草木が茂っていて土塁を確認することはできませんでした。車を止めた場所が土塁の上の部分かもしれません。

土塁跡
石塁
 石塁は,道路脇に2か所表示が並んで立っていますが,道路から下の斜面は石も崩れていてわかりにくいようです。雪が降った後でわかりにくいのですが,石積みの確認はできました。下ばかり見て探していたのですが,車を止めた場所の上方を見たら石塁がはっきりとわかりました。上側斜面の石塁は,高さはそんなにありませんが山上からの連続性を確認できます。
また,これに沿って車道と呼ばれる帯状の遺構があります。(上の図では細線の部分です。)





石塁跡
山頂の礎石群
 頂上には駐車場やトイレが整備されています。そこから,展望台のあるところまで上ります。すると,瀬戸内海,大橋,讃岐富士,府中湖や多くのため池,広大な讃岐平野を見下ろすことができます。天気のよい日は,爽快な気分になる素晴らしい場所です。展望台下の平らな部分に礎石らしき石が転がっています。この辺りに建物が造られていたのだろうと推測されます。



山頂の礎石群
水口(みなぐち)水門跡
 今もたくさんの水が流れています。山の上から下方へ石塁が続いており,ゴルフ場を造る時にこの場所の石が取り除かれて道が造られたようです。石塁の高さ1.5m,水門の高さは0.5m,排水溝部の幅0.4m,この施設のもともとの高さは3mぐらいであったようです。水門上は平らになっていますが,やや崩れています。水門を含んだ石塁の幅は29mでゴルフ場のクラブハウスまで続いています。さらに,そこから奥の管理棟まで73mの石塁があります。この水門は復元ではなく,昔のままの姿をとどめています。





水口水門
貯水池跡
 写真の池はゴルフコースの中にありますが,この池はここにもともとあったものを少し整備したものだそうです。つまり,城山城の貯水池跡であろうと考えられます。

貯水池
城門跡
 
城門跡
 幅は4.4mあります。城門の上部幅は3.6m,基底部は7mです。城門をはさんで左右に9mの石塁が残っています。全体は岡山県の鬼ノ城で見たような形の石積みでした。城山の北斜面に谷道を寸断する形で門が造られています。ここに国指定の「史跡城山」を示す立派な石碑が立っています。下に続く道があったようですが現在は崩れていそうです。以前は次のホロソ石まで道があったそうで,ホロソ石が城門跡の遺構であるとすれば,この山が二重の城壁で囲まれていたのかもしれません。
 
 下方から上方を見て 城門左側                        城門右側
ホロソ石・カガミ石・マナイタ石


 頂上駐車場から少し下りたT字路を加茂町方向へ向かいます。しばらく下りて明神原遺跡を過ぎた地点に案内があります。奥へ100mと書かれた案内もありますが,写真の場所はさらに下った道沿いの山の上り斜面にあるもので,数個の加工された石があります。ホロソ石,マナイタ石などと呼んでいますが,多分上図のように柱を立てるために石ではさんで固定していたものであろうと推測されます。ホロソ石は山全体で9個,カガミ石,マナイタ石はそれぞれ3個ずつ見つかっています。

カガミ石


ホロソ石


ホロソ石

飯野山(讃岐富士)と城山


神籠石 
 神籠石(こうごいし)・神籠石式山城(こうごいししきやましろ)は「日本書紀」「続日本紀」に記載がありませんが,古代の山城の跡です。全体像がつかめていないため,築造経緯ははっきりしません。多くの神籠石は,標高200~400mの山頂から中腹にかけて発見されています。一辺が70cmぐらいの直方体の石が並んで置かれており,総延長は1000mを超えています。また,所々で水門の跡が見られることもあります。
杷木神籠石 (はきこうごいし)
 筑後川右岸の丘陵にあり,昭和42年,全国で9番目に発見されました。南端が筑後川に面しており,高台から筑紫平野を見渡すことが出来ます。山の稜線に沿って2250mの列石があり,最高部の標高は245mあります。数カ所水門が築かれていました。現在は山城を国道が分断しており,南側が公園として整備されています。福岡県朝倉市杷木地図

山城の北側

南側は筑後川に面している
列石が整然と並べられています。 昭和47年に国の指定史跡となっています。

おつぼ山神籠石
 おつぼ山神籠石とよばれている石積みは杵島山の西麓に位置し,標高62mのおつぼ山に築かれた古代山城の跡と考えられています。列石の大きさはほぼ同じで,一辺が約70㎝です。この付近では,2カ所の水門跡,門跡,幅9mの土塁跡が見つかっています。佐賀県武雄市橘町大字大日 地図

おつぼ山全景
 「神籠石は古墳時代後期に築城されたと推定されている朝鮮式山城に類する古代史上重要な遺跡である。おつぼ山神籠石は杵島山の西側に派生して半独立丘を呈している標高62メートルのおつぼ山に築城されていて、昭和三十七年五月に発見された全国八番目の神籠石である。この神籠石の列石の延長は約1870メートルでその中約760メートルは破壊欠失している門址二ヶ所、水門址二ヶ所、土塁一ヶ所が現存しており列石線の前面には三メートルの間隔で柱孔が並び木柵が設けられていたことを物語っている。水門は谷の上方へ向ってアーチ形に構築されており奥行九メートルの間には無数の栗石が投入され中央には石囲いの暗渠が通じていて放水装置であることを知ることができる。土塁は峰と峰との鞍部を連結するため九メートル幅に二列に石を並べ盛土をしたものであり門址は間口三メートルでそれぞれ四個と六個の柱孔がある。 」写真右石碑説明文
   
第1水門跡
   
列石の延長は1870mあります。



高安城(たかやすのき)地図
奈良県生駒郡, 大阪府八尾市
 飛鳥宮あるいは大津宮を守る最後の砦がここ高安城でした。高安山は大阪府と奈良県の境にあり,生駒山脈の南端に位置しています。山頂近くには大阪管区気象台の高安山気象レーダー観測所が置かれています。

近鉄信貴線 信貴山口駅-高安山駅

倉庫跡石碑

倉庫礎石

倉庫礎石

倉庫礎石

倉庫復元図
 これらの礎石はその後の調査で,奈良時代初期(730年頃)のものではないかとも言われています。その後,山中から巨石が発見されて話題となりましたが,実は高安城は未だ幻の城となっています。高安山には戦国時代にも城が築かれました。松永久秀が築き,信貴山城の出城としたのが高安城(たかやすじょう)です。


石城山神籠石
山口県南東部熊毛郡田布施町・光市  地図

石城山全景
 
 石城山神籠石(いわきさんこうごいし)とよばれている石列は山口県光市にある石城山(標高350m)の8合目あたりを取り囲むように見られ,その長さは約2.6㎞もあります。そして,東西南北それぞれに水門が設けられており,古代山城の特徴を示しています。
  山道終点の手前に南水門への案内標示を見つけることができます。しかし,ここは水門としての形をとどめておらず,小規模な石積があるだけです。
 今回の訪問は何の下調べもなく出かけたため,この石積を見て,これまで訪ねた他地域の神籠石と同様に,ここ「石城山神籠石」はこのような石積が残っているだけの史跡かと推測してしまいました。
 しかし,実際は大規模な石積や水門跡を見ることができる山城で,短時間で回れるものではないことがわかりました。。
  
 

 山道終点付近に石城神社があります。神社入口に着くと史跡の案内があり,写真と図で各水門の位置が示されていました。この山城跡には4か所の水門跡,北門跡,版築によって造られた土塁跡が見つかっています。
 神社入口にはわらぶき屋根の随身門が建っています。以前ここには神護寺という寺があったので,その山門だったようです。
 この門前の駐車場に車を止めて各水門を見て回ることにしました。
 石城神社は延喜式内社で,由緒ある神社である。御祭神は大山祇神(おおやまつみのかみ)・雷神(いかづちのかみ)・高靇神(たかおかみのかみ)で,武事・鉱山・農林の神をお祀りしている。旧号を三社権現といっていたが,明治元年石城神社と改称した。石城神社の創建は明らかでないが,社伝によると,敏達天皇三年(五七四)の鎮座と言われ,天皇の勅額と伝えられる「石城宮(いわきぐう)」も保存されている。
         神社の説明より

第二奇兵隊本陣跡
   この石城山は幕末の動乱期の史跡でもあります。当時長州(中国地方西部)では高杉晋作が奇兵隊という戦闘部隊を結成し幕府に対抗しました。1866年(慶応元年)6月,第二次長州征伐では石城山の神護寺におかれていた第二奇兵隊の本陣から出陣し,幕府軍を相手に戦って大島の奪還に成功しています。1867年の大政奉還後は官軍として旧幕府軍と戦いました。現在神護寺はなく,第二奇兵隊本陣跡の石碑が石城神社の境内地に建てられています。
 本陣跡を通り西水門へ向かいます。
 コースには至る所で石列を見ることができます。山の斜面に埋め込まれているようにきれいに並んでいます。  
石列

龍尾石
 また,いくつかの大きな石を見ることができます。山城にとってどのような役割を持っていたかは不明ですが,それぞれに名前がつけられています。
 
南側から見る西水門全景

北側から見る西水門全景
 水門は山の谷の部分に造られています。西水門としての形はやや崩れていますが,それを取り巻く石積は大規模なもので,大きく3段で積まれているように見えます。そして,最上部に水門が設けられ,そのラインで石列が北水門に向かってつながっています。(上の左写真の左上に石列が写っています。)  
   
西水門跡 
 石列が途切れたところで版築によって造られたと思われる土塁を見ることができます。
土塁跡 
   
北水門の手前,山の斜面を覆うように石積が残っています。 
 
西側から見る北水門跡全景
 
東側から見る北水門跡全景
   
北水門は崩れないで残っていました。 
 北水門から北門に至る途中に「龍石」と呼ばれる大きな石があります。  
   
 北門跡
城門は表門と裏門の遺構が発見されています。北門は第一門で,門扉の柱礎石と思われる石が残っています。
   東門に至る途中にあった「夜泣き石」
   
 石列は何段にも積み重ねられている所と一段のみ露出している所とあります。いくつかの切れ目はありますが,山全体を取り囲んでいるように並べられています。 
 
東水門へ
 
東水門全景
 東水門も崩れないで残っていました。
  石城山からは瀬戸内海を見ることができます。山城が造られた頃は,石城山の近くまで海であったと想像します。瀬戸内海をいく船が間近に見えたことでしょう。

永納山(えいのうざん)城 
(愛媛県西条市河原津)
 

 永納山城跡は愛媛県西条市河原津および今治市孫兵衛作にまたがり,日本書紀等には記述がないのですが発掘調査の結果,古代山城であることが分かりました。2005年,国の史跡として指定されています。他の古代山城と同様に山を取り囲むようにして列石と土塁によった城壁が築かれていたようです。発掘調査によって,その長さは約2.5kmと推定されます。
 
   
 山城への入り口は2ヶ所あります。それぞれの入り口に,写真のような看板が立てられています。北側の入り口へは医王池前から国道196号を山に向かって折れ,今治小松道のガードをくぐってすぐに坂を登ります。先は行き止まりなので,戻ることを考えると坂の下に車を止めて歩いて登るのが良いようです。坂を登ると永納山の北に瀬戸内海が広がり,当時はこの山の下近くまでが海であったろうと推測できます。 
   
 南側の入り口は世田薬師の対面の駐車場から見ることができますが,山への登り口はここから150mほど進んだところにあります。 
 山道はあまり整備されていないため,草が多いと道を迷ってしまいます。案内表示もないため,どこを目指していいのかもわかりません。   
   ところどころで石列を見ることができますが,多くは腐葉土の下に隠れています。 
  
頂上を目指して歩いているとところどころに石列らしい石の並びを見ることができます。
 夏は草木が石列を隠すので見落としてしまいます。よく見ると同じような大きさの石が並べて置かれているのがわかります。  
   頂上付近は木が切られていて眺めもいいです。この辺りで石列を確認することはできません。 
 
 山城を築く際,自然地形をそのまま利用し,もともとあった巨石と人工的に置いた石とを組み合わせることがありますが,頂上付近に散らばっている石がそれなのかはわかりません。 
 これらの石は明らかに人工的に加工してあります。他の山城では城門や水門があるので,これもそれらの役割をもったものかと推測しました。   
   山を見下ろす位置から確認しました。石が散乱しているのがわかります。今から1500年も前の築城ですから,崩れて原形をとどめないのも仕方ありません。 
 山の斜面から顔を出している石を見て,石列か自然石が露出しているのかを判断することは難しいのですが,同じような大きさの石が横に並んでいると人工的なものと推測されます。  
   
 頂上付近には比較的大きな石が散在しています。何らかの役割があった石と考えてもいいのかもしれません。
   この城跡を見学する際,西条市の教育委員会に連絡し詳しい場所を聞きました。現在も発掘調査を行っているとのことで,現場にはビニルシートがかけられていました。過去の現地説明会資料から判断すると,この下には石列や版築土塁があると思われます。 
 
 夏の大変暑い日に見学しました。北からと南からの両方向から登り,熱中症寸前で車に戻りました。 



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