聖徳太子 | ||
聖徳太子像 |
市神神社 (滋賀県東近江市八日市本町) |
592年,推古天皇が豊浦宮(とゆらのみや)で即位し,甥(おい)の廐戸皇子(うまやどのみこ-「聖徳太子」)が皇太子となった。廐戸皇子は推古天皇の摂政となり,政治を行った。聖徳太子は大王(天皇)中心の政治をめざし,遣隋使派遣,冠位十二階や十七条憲法を制定した。また,四天王寺・法隆寺などを建立した。 飛鳥時代は渡来人が活躍した時代でもある。その渡来人たちが伝えた仏教は日本に大きな影響を与えた。 大和王権の有力な豪族に蘇我氏と物部氏がいる。蘇我氏は渡来人の東漢氏(やまとのあやうじ)や西文氏(かわちのふみうじ)とつながり,大陸の文化を多くとりいれようとしたり,仏教を崇拝し自宅に仏像をおいたりした。物部氏は石上神宮を氏神とし,中臣氏や忌部氏とともに排仏を主張した。こうして蘇我氏と物部氏の対立が激しくなっていく。この動乱の中で廐戸皇子が登場し,大王を中心とした争いのない国づくりを目指していく。 |
国内の情勢
(* 「大化の改新」・「仏教伝来」のページと一部重複)
この時代日本は「倭国」と呼ばれていたので,本文中の記載も前後の事実を考えて使い分けている。
大和の豪族 |
大和王権下において,有力な豪族たちの集団を「氏:うじ」といい,「氏上:うじがみ」(一族の首長的地位)を中心としてまとまっていた。また,氏上は大和王権の構成員であり,それぞれの地位応じて「臣:おみ」「連:むらじ」「宿禰:すくね」「造:みやっこ」というような「姓:かばね」を授けられていた。これを「氏姓制度」という。「姓」の中でも特に,「臣:おみ」「連:むらじ」を賜(たまわ)った豪族は大和王権の中心部にいた。葛城(かずらぎ),平群(へぐり),巨勢(こせ),蘇我(そが),大伴(おおとも),物部(もののべ)などは大和王権における有力な豪族だった。そして,最も力のある豪族には「大臣:おおおみ」と「大連:おおむらじ」という位を授けられていた。軍事や裁判を担当していたのが「大連」の物部氏(物部尾輿:おこし),財政や外交を担当していたのが「大臣」の蘇我氏(蘇我稲目:いなめ)だった。 |
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仏教伝来 |
538年(552年説もある),百済の聖明王の使いで訪れた使者が欽明天皇に金銅の釈迦如来像や経典,仏具などを献上したことが仏教伝来の始まり。天皇は礼拝すべきかを臣下たちに問うと,大陸の優れた文化である仏教を受け入れるべきと蘇我稲目が答えたのに対して,物部尾輿や中臣鎌子らは外国の神を受け入れれば,日本古来の「神(国つ神)」が怒るという理由から,仏教に反対し,徹底的に排除するべきと言った。そこで天皇は試しに拝んでみるようにとこれらを蘇我稲目に授けた。稲目は小墾田の自宅に安置し,向原(むくはら)の家を浄めて寺とした。この時より向原の家は日本最初の寺となった。 |
向原寺(向原家・豊浦宮・豊浦寺跡) |
物部尾輿が仏像を投げ捨てた池と伝わるのが難波池。当時ここは難波の堀江とよばれていた。 投げ捨てられて池に沈んでいた仏像は信濃の国から都に来て,この池の前をたまたま通りかかった本田善光(ほんだよしみつ)という人物によって発見される。 長野の善光寺縁起によると,仏像は聖徳太子の祈りに一度だけ水面に現れたが再び底に沈んだままとなっていた。しかし,本田善光が池の前に来ると,金色の姿を現し,善光こそ百済の聖明王の生まれ変わりであると告げる。善光はこの仏像を背負い信濃にもどり自宅に祀った。これは善光寺の創建に関わる話である。 |
難波池 |
大聖勝軍寺 (大阪府八尾市) |
584年,百済から鹿深臣(かふかのおみ)が弥勒菩薩(みろくぼさつ)を持ってもどってきた。蘇我馬子は仏殿を建ててそれを収めた。敏達(びだつ)天皇が崇仏に同意したこともあって,蘇我氏対物部氏の対立が再び激化する。 父稲目の時代と同じでこの時も疫病が流行り始めた。585年,物部守屋(もりや-物部尾輿の子)は敏達天皇に仏教が原因と訴えると天皇もこれに同意したため,守屋は仏像・仏殿を焼き払ってしまった。しかし,この後も疫病は続き,天皇までも病死してしまう。続く用明天皇も病死し,その後継者をめぐって,蘇我氏と物部氏の対立は宗教対立からやがて武力衝突へと発展する。いよいよ互いの権力争いに決着をつけねばならなくなった。 587年,とうとう蘇我氏は物部氏など廃仏派の豪族たちと戦い,物部守屋をはじめとする有力豪族を滅ぼした。こうして,大和王権における蘇我氏の権力が確立した。この戦いには蘇我氏の血をひく14歳の廐戸皇子(うまやどのおうじ:後の聖徳太子)も蘇我氏とともに戦った。「聖徳太子」は太子の死後に贈られた諡号(しごう)で,生前は廐戸皇子(うまやどのみこ)あるいは上宮太子(じょうぐうたいし)とよばれていた。(このページでは摂政になる以前を「廐戸皇子」「皇子」,以後を「聖徳太子」「太子」と記述した。) |
聖徳太子が建てたとされる7寺
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十七条憲法 | |
推古天皇十二年夏四月丙寅朔。戊辰。 一曰。以和為貴。無忤為宗。人皆有党。亦少達者。是以或不順君父。乍違于隣里。然上和下睦。諧於論事。則事理自通。何事不成。 二曰。篤敬三宝。三宝者仏法僧也。則四生終帰。万国之極宗。何世何人非貴是法。人鮮尤悪。能教従之。其不帰三宝。何以直枉。 三曰。承詔必謹。君則天之。臣則地之。天覆地載。四時順行。方気得通。地欲覆天。則致壊耳。是以君言臣承。上行下靡。故承詔必慎。不謹自敗。 四曰。群卿百寮。以礼為本。其治民之本。要在乎礼。上不礼而下非斉。下無礼以必有罪。是以君臣有礼。位次不乱。百姓有礼。国家自治。 五曰。絶饗棄欲。明弁訴訟。其百姓之訟。一日千事。一日尚爾。況乎累歳。須治訟者。得利為常。見賄聴●(ゴンベン+「獻」)。便有財之訟。如石投水。乏者之訟。似水投石。是以貧民。則不知所由。臣道亦於焉闕。 六曰。懲悪勧善。古之良典。是以無惹人善。見悪必匡。其諂詐者。則為覆国家之利器。為絶人民之鋒剣。亦侫媚者。対上則好説下過。逢下則誹謗上失。其如此人。皆无忠於君。無仁於民。是大乱之本也。 七曰。人各有任掌。宜不濫。其賢哲任官。頌音則起。奸者有官。禍乱則繁。世少生知。尅念作聖。事無大少。得人必治。時無急緩。遇賢自寛。因此国家永久。社稷無危。故古聖王。為官以求人。不求官。 八曰。群卿百寮。早朝晏退。公事靡●(「鹽」の右上の「鹵」の代りに「古」)。終日難尽。是以遅朝不逮于急。早退必事不尽。 九曰。信是義本。毎事有信。其善悪成敗。要在于信。君臣共信。何事不成。君臣無信。万事悉敗。 十曰。絶忿棄瞋。不怒人違。人皆有心。心各有執。彼是則我非。我是則彼非。我必非聖。彼必非愚。共是凡夫耳。是非之理。誰能可定。相共賢愚。如鐶无端。是以彼人雖瞋。還恐我失。我独雖得。従衆同挙。 十一曰。明察功過。賞罰必当。日者賞不在功。罰不在罰。執事群卿。宜明賞罰。 十二曰。国司国造。勿歛百姓。国非二君。民無両主。率土兆民。以王為主。所任官司。皆是王臣。何敢与公賦歛百姓。 十三曰。諸任官者。同知職掌。或知職掌。或病或使。有闕於事。然得知之日。和如曾識。其以非与聞。勿防公務。 十四曰。群卿百寮。無有嫉妬。我既嫉人。人亦嫉我。嫉妬之患。不知其極。所以智勝於己則不悦。才優於己則嫉妬。是以五百之。乃令遇賢。千載以難待一聖。其不得聖賢。何以治国。 十五曰。背私向公。是臣之道矣。凡夫人有私必有恨。有憾必非同。非同則以私妨公。憾起則違制害法。故初章云。上下和諧。其亦是情歟。 十六曰。使民以時。古之良典。故冬月有間。以可使民。従春至秋。農桑之節。不可使民。其不農何食。不桑何服。 十七曰。夫事不可断独。必与衆宜論。少事是軽。不可必衆。唯逮論大事。若疑有失。故与衆相弁。辞則得理。 (返り点・送り仮名省略) (明治44年版刊本による) (漢字変換できない文字について●( )で説明) |
一に曰はく,和を以て貴(たつと)しと為し,忤(さから)ふこと無きを宗と為す。人皆党(たむら)有りて,亦達者少し。是を以て或は君父に順(したが)はずして,乍(たちま)ち隣里に違(たが)ふ。然れども上和(やはら)ぎ下睦(むつ)びて,事を論(あげつら)ふに諧(ととの)へば,則ち事理自ら通ず,何事か成らざらむ。 二に曰はく,篤(あつ)く三宝(さんぼう)を敬へ。三宝は仏法僧なり。則ち四生(ししやう。胎生,卵生,湿生,化生の称,凡べての生物をいふ也)の終帰(しうき),万国の極宗(きょくそう)なり。何(いづれ)の世,何(いづれ)の人か是(こ)の法(のり)を貴ばざる。人尤(はなは)だ悪しきもの鮮(すくな)し。能く教ふるをもて従ふ。其れ三宝に帰せずんば,何を以てか枉(まが)れるを直さむ。 三に曰はく。詔(みことのり)を承(う)けては必ず謹め。君をば天(あめ)とす。臣(やつこら)をば地(つち)とす。天覆(おほ)ひ地載す。四時順(よ)り行き,方気(ほうき)通(かよ)ふを得。地天を覆(くつがへ)さんと欲するときは,則ち壊(やぶれ)を致さむのみ。是を以て君言(のたま)ふときは臣承(うけたまは)る。上行へば下靡(なび)く。故に詔を承けては必ず慎め。謹まざれば自らに敗れむ。 四に曰はく。群卿(まちぎみたち)百寮(つかさづかさ),礼を以て本と為(せ)よ。其れ民を治むる本は,要は礼に在り。上礼無きときは下斉(ととのほ)らず。下礼無きときは以て必ず罪有り。是を以て君臣礼有るときは,位の次(つぎて)乱れず。百姓礼有るときは,国家(あめのした)自ら治まる。 五に曰く。饗(あぢはひのむさぼり)を絶ち,欲を棄て,明に訴訟(うつたへ)を弁へよ。其れ百姓の訟(うつたへ)は一日に千事あり。一日すら尚爾(しか)り。況んや歳を累(かさ)ぬるをや。須らく訟を治むべき者,利を得て常と為し,賄(まひなひ)を見て●(ことわり)を聴(ゆる)さば,便(すなは)ち財(たから)有るものの訟は,石をもて水に投ぐるが如し。乏しき者(ひと)の訟は,水をもて石に投ぐるに似たり。是を以て貧しき民,則ち所由(よるところ)を知らず。臣道亦焉(ここ)に於て闕(か)けむ。 六に曰く。悪を懲(こら)し善を勧むるは,古の良(よ)き典(のり)なり。是を以て人の善を慝(かく)すこと無く,悪を見ては必ず匡(ただ)せ。若し諂(へつら)ひ詐(いつは)る者は,則ち国家を覆すの利器たり。人民を絶つ鋒剣たり。亦侫媚者(かたましくこぶるもの)は,上に対(むか)ひては則ち好みて下の過を説き,下に逢ては則ち上の失(あやまち)を誹謗(そし)る。其れ如此(これら)の人は,皆君に忠(いさをしきこと)无(な)く民に仁(めぐみ)無し。是れ大きなる乱の本なり。 七に曰はく,人各任掌(よさしつかさど)ること有り。宜しく濫(みだ)れざるべし。其れ賢哲官に任(よさ)すときは,頌音(ほむるこゑ)則ち起り,奸者官を有(たも)つときは,禍乱則ち繁し。世に生れながら知ること少けれども,尅(よ)く念(おも)ひて聖を作(な)せ。事大小と無く,人を得て必ず治む。時急緩と無く,賢に遇ひて自(おのづか)ら寛(ゆたか)なり。此に因て国家永久,社稷(しやしよく)危きこと無し。故(か)れ古の聖王,官の為に以て人を求む,人の為に官を求めたまはず。 八に曰はく,群卿百寮,早く朝(まゐ)り晏(おそ)く退(まか)でよ。公事監(いとま)靡(な)く,終日(ひねもす)にも尽し難し。是を以て遅く朝(まゐ)れば急に逮(およ)ばず。早く退(まか)れば必ず事尽(つく)さず。 九に曰はく,信は是れ義の本なり。事毎(ごと)に信有れ。若し善悪成敗,要は信に在り。君臣共に信あるときは何事か成らざらむ。 十に曰はく。忿(いかり)を絶(た)ち瞋(いかり)を棄て,人の違ふことを怒らざれ。人皆心有り。心各執ること有り。彼是(ぜ)なれば吾は非なり,我是なれば則ち彼非なり。我必ずしも聖に非ず。彼必ずしも愚に非ず。共に是れ凡夫(ぼんぶ)のみ。是非の理,誰か能く定む可き。相共に賢愚,鐶(みみがね)の端无(な)きが如し。是を以て彼の人は瞋(いか)ると雖も,還(かへつ)て我が失(あやまち)を恐る。我独り得たりと雖も,衆に従ひて同く挙(おこな)へ。 十一に曰はく,功過を明察(あきらか)にして,賞罰必ず当てよ。日者(このごろ),賞功に在らず,罰罰(つみ)に在らず。事を執れる群卿,宜しく賞罰を明にすべし。 十二に曰はく,国司(みこともち)国造(くにのみやつこ),百姓に歛(をさめと)ること勿れ,国に二君(ふたりのきみ)非(な)く,民に両主(ふたりのぬし)無し,率土(そつと)の兆民,王(きみ)を以て主(しゆ)と為す。所任官司(よさせるつかさみこともち)は皆是れ王臣なり。何ぞ敢て公(おほやけ)と与(とも)に百姓に賦斂(をさめと)らむ。 十三に曰はく,諸(もろもろ)の任官者(よさせるつかさびと),同じく職掌(つかさごと)を知れ。或は病(やまひ)し或は使(つかひ)して,事に闕(おこた)ることあり。然れども知るを得ての日には,和(あまな)ふこと曾(さき)より識(し)るが如くせよ。其れ与(あづか)り聞(き)くに非ざるを以て,公務(まつりごと)を防(さまた)ぐること勿れ。 十四に曰はく,群卿百寮,嫉(そね)み妬(ねた)むこと有る無(なか)れ。我既に人を嫉めば,人亦我を嫉む。嫉妬(しつと)の患,其の極りを知らず。所以(ゆゑ)に智己れに勝(まさ)れば,則ち悦ばず。才己れに優(まさ)れば,則ち嫉妬(ねた)む。是を以て五百(いほとせ)にして乃ち賢(さかしびと)に遇はしむれども,千載(ちとせ)にして以て一聖を待つこと難し。其れ聖賢を得ざれば,何を以てか国を治めむ。 十五に曰はく,私を背いて公に向くは,是れ臣の道なり。凡そ夫人(ひとびと)私有れば必ず恨(うらみ)有り,憾(うらみ)有れば必ず同(ととのほ)らず。同らざれば則ち私を以て公を妨ぐ。憾(うらみ)起れば則ち制(ことわり)に違ひ法(のり)を害(やぶ)る。故に初の章(くだり)に云へり,上下和諧(あまなひととのほ)れと。其れ亦是(こ)の情(こころ)なる歟(かな)。 十六に曰はく,民を使ふに時を以てするは古(いにしへ)の良典(よきのり)なり。故(か)れ冬の月には間(いとま)有り,以て民を使ふ可し。春従(よ)り秋に至つては,農桑(たつくりこがひ)の節(とき)なり,民を使ふ可らず。其れ農(たつく)らずば何を以てか食はむ。桑(こが)ひせずば何をか服(き)む。 十七に曰はく,夫れ事は独り断(さだ)む可らず。必ず衆(もろもろ)と与(とも)に宜しく論(あげつら)ふべし。少事は是れ軽し,必ずしも衆(もろもろ)とす可らず。唯大事を論(あげつら)はんに逮(およ)びては,若し失(あやまち)有らんことを疑ふ。故に衆と与(とも)相弁(わきま)ふるときは,辞(こと)則ち理を得。 飯島忠夫・河野省三編『勤王文庫』第一篇(大日本明道館。大正八年六月十五日発行)による。 |
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* 飛鳥大仏及び聖徳太子像について飛鳥寺-安居院の画像使用許可済 *十七条憲法の原文及び書き下し文はJ-TEXT(日本文学学術的電子図書館)よりの転載(許可済) *聖徳太子の姿としてよく知られている「聖徳太子・二王子像(唐本御影)」は法隆寺と宮内庁が所蔵していますが,共にホームページ上でのデジタル画像の公開について許可していません。 |
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