日本の歴史を学ぶ

− 歴史の舞台に立ち,時代の流れを見る −

日本の歴史総合年表
(年表と比較して見てみよう)

時代区分 主な出来事 歴史の舞台
資料・写真集リンク
旧石器時代

日本では約3・4万年前頃〜1万年前
日本に人類がやってきた
 約10万年前,このころは日本列島がまだ大陸や東南アジアと陸続きであったと考えられています。日本列島にシベリア(ユーラシア大陸)から新人(現代型ホモサピエンス:古モンゴロイド)がやってきました。狩猟,採集をしながら移動生活をしていた人類で,打製石器も使っていました。長野県の野尻湖からはナウマン象の化石やオオツノシカのツノが,静岡県根堅(ねがた)遺跡ではトラ,ヒョウ,シカなどの獣骨が発見されています。

旧石器時代人の発見
浜北人
 根堅遺跡(静岡県浜北市)で本州で唯一の旧石器人骨が発見されました。遺跡の上層から発見された20歳代女性人骨は今から約1万4千年前,下層から発見された脛骨は約1万8千年前のものと測定されています。
(注 これまで旧石器時代人とされてきた愛知県豊橋市の牛川人は獣骨,静岡県の三ヶ日人は縄文時代人という鑑定が出されました。)

約1万7000年から8000年頃のものと思われる人骨が沖縄県具志頭村港川の砕石場から発見されました。発見された場所から港川人と名付けられました。(2010年2月,日本でもっとも古い約2万年前の人骨が沖縄県石垣島市の白保竿根田原(しらほさおねたばる)洞穴遺跡で発見されました。)
原始時代写真集1

原始時代写真集2


静岡県 浜北人発見地


沖縄県 港川人発見地
縄文時代
1万〜3千年前

狩りや採集生活が
1万年続く

縄文時代の始まりと稲作の始まり
 日本各地で今からおよそ4000年以上も前に焼かれた土器が出土しました。低温で焼かれたものが多く,土器の表面に縄をころがしてつけた模様があることから縄文土器(じょうもんどき)といいます。土器は人々の生活を大きく向上させるものとなりました。
  縄文土器の変化
 @草創期・早期 約11,000年前〜 
            底のとがった尖底(せんてい)土器が多い。
 A前期      約7,200年前〜
            底が平らになる。縄文がはっきり見られる。
 B中期      約5,500年前〜
            火焔(かえん)土器など飾りをつけたものが多い。
 C後期      約4,700年前〜
            つぼ型,どびん型など使い道によって形が様々な土器が見られる。
 D晩期      約3,400年前〜
            精巧な形,細かな描写が見られる。

 最初,人々は自然の洞窟(どうくつ)や岩穴に住み,石や骨などで作った道具を使って集団で狩りや採集をして食べ物を得ていました。また,木をくりぬいて作った舟で魚や貝も捕っていました。これらを煮炊きし,保存するのに土器が使われた。遺跡からは土偶(どぐう)も見つかっています。

 縄文時代後期となる今から約2千3百年前に中国から稲作が九州に伝わりました。この時代には竪穴式住居跡も発見され,稲作に使ったと思われる農具も出土するため,定住生活を行っていたと考えられています。
 
1万年間続いたこの時代を縄文時代といいます。


三内丸山遺跡


長野県尖石遺跡
(縄文中期遺跡)
土偶「縄文のビーナス」は国宝。
なぜか土偶の大半は女性像。豊壌祈願?病気平癒?


蜆塚遺跡
縄文時代後期の貝塚
 (静岡県浜松市)
弥生時代
紀元前 3 世紀〜紀元後 3 世紀
今から約2千〜3千年前

稲作の発達は社会を大きく変えていく
国が生まれる
 およそ2千3百年前に中国や朝鮮半島から人々(新モンゴロイド)が九州北部に渡来してきました。縄文人とは異なり,平坦な顔の渡来系弥生人は,やがて日本に広がり,縄文人とも混じり合っていきます。その結果,現在の日本人が形成されていきました。また,稲作技術も入り,日本人の生活を大きく変えていきます。

 明治17年,現在の東京都文京区弥生にある貝塚から赤く焼けたつぼ型土器が発見されました。表面の飾りがなく,これまでの土器と区別して弥生土器(やよいどき)と名付けられました。農耕が発達し「国」ができてくるこの時代を弥生時代といいます。
 農具の発達によって稲作が全国に広がっていきました。。木や石で作られていた農具は,この時代の後期には鉄製に代わっています。収穫量が増えると米を蓄える高床式倉庫もたてられました。また,青銅器も登場し,銅鐸(どうたく)や鏡なども作られました。
 今から約2千年前の吉野ヶ里遺跡(佐賀県)のように,集落の周りに濠(ほり)や土塁(どるい)をめぐらした跡が発見されるが,集落同士で争いが起こっていたと推測されます。稲作の発達とともに「ムラ」が形成され,収穫物や領地で争いも起きていました。勝者は周辺一帯をまとめより大きな「クニ」が形成されていきます。やがて強い指導者の下で「国」としてのまとまりができました。
中国の歴史書が伝える日本
『漢書(地理志)』
倭人の国は百余国に分かれています。楽浪郡(現在の平壌付近)に使者を送っています。倭人:わじん=日本人 楽浪郡:らくろうぐん 平壌:ピョンヤン

『後漢書(東夷伝)』(ごかんじょ とういでん)
紀元57年 倭の奴国王(なこくおう)の使者が洛陽(らくよう)で後漢の光武帝(こうぶてい)から金印(「漢委奴国王」かんのわのなのこくおう)を賜った。107年 倭国王が生口(せいこう=奴隷)160人を安帝に献上しました。
    

『魏志(倭人伝)』(ぎし わじんでん)
諸国の争乱が邪馬台国(やまたいこく)の卑弥呼(ひみこ)が女王となっておさまった。卑弥呼は30ばかりの国を従えていました。
239年,魏の皇帝に使者を送って,「親魏倭王」(しんぎわおう)の称号と多数の銅鏡を賜りました。
卑弥呼は巫女(みこ)として神の声を聞いて政治を行いました。
邪馬台国では大人(たいじん)と下戸(げこ)の身分の差がありました。
邪馬台国論争
九州説 畿内説
・邪馬台国は吉野ヶ里遺跡(よしのがりいせき)なども含んだ九州北部一帯を支配していた連合組織だった。
・『魏志』の方角の記述が合う。
・大和の政権とは別とも考えられる。
・3世紀には機内から九州にかけての広大な連合政権が誕生していました。これが邪馬台国。
・『魏志』の距離の記述が合う。
・大和地方に3世紀の古墳があり,この時期の銅鏡も発見されています。
・2009年の調査で纒向(まきむく)遺跡(奈良県桜井市辻)で3世紀前半では国内最大の大型建物跡が見つかりました。
・纒向遺跡で絹製の巾着袋が発見された。
その他の地域
出雲 名古屋




佐賀県吉野ヶ里遺跡(弥生前期〜後期)には濠や物見櫓跡が残っています。



静岡県登呂遺跡



奈良県唐子・鍵遺跡からは物見櫓が描かれた土器片が発見されています。



方士 徐福の渡来
日本では伝説の人ですが,中国
では実在の人として知られています。


金印の発見場所は福岡県志賀島。

古墳時代
3世紀後半〜
7世紀前半

仏教が伝わり,大王中心の国づくりが始まる
大和政権が日本を統一する


古墳時代写真集



前期古墳:箸墓古墳












中期古墳:大仙陵古墳

後期古墳:高松塚古墳

五色塚古墳

千塚古墳

ナガレ山古墳


三角縁神獣鏡

日本の巨大古墳100

ヤマトタケルの伝説



渡来人


仏教の伝来



磐井の乱


岩戸山古墳 福岡



蘇我氏

石舞台古墳
 3世紀半ばから造られ始めた古墳は4世紀半ばには全国に広がっていきます。古墳は大王や豪族の首長の墓であり,その権力の大きさを物語っています。特に大阪・奈良には大規模な古墳が存在することから,この地方に強大な力が存在したことがわかります。「大和政権(大和王権,大和朝廷)」という全国を統一した政権があったという証拠でもあります。

 大和政権は5世紀までに統一されていました。
   熊本県江田船山古墳出土鉄剣
     「治天下獲□□□鹵大王世・・・・」
   埼玉県稲荷山古墳出土鉄剣
     「辛亥年・・・・獲加多支鹵大王・・・・」
              赤字はワカタケル大王を表します。
 
 古墳時代前期には大きな古墳が造られ,中から三角縁神獣鏡(さんかくぶちしんじゅうきょう)などの銅鏡や装飾品,鉄製武器や農具などが出土しました。被葬者である首長は司祭者的性格を持っていたと考えられています。後期は横穴式石室をもつ古墳が全国で造られ,その数が一気に増えました。有力農民が古墳を造り始めたからです。大きな古墳が造られなくなり,代わりに地方で力のある者の小古墳が多く造られるようになりました。
古墳の大きさ(墳丘の長さ)
 1位 大仙古墳 大阪府堺市    486m
 2位 誉田御廟山古墳 大阪府羽曳野市 415m
 3位 上石津ミサンザイ古墳 大阪府堺市 362m
 4位 造山古墳 岡山県岡山市    360m
 5位 河内大塚古墳 大阪府松原市 335m
      *6位以降は日本の巨大古墳100参照

三角縁神獣鏡 
      「黒塚古墳出土29号鏡 三角縁神獣鏡
 
特徴のある形  −前方後円墳−
 古墳には方墳,円墳をはじめ様々な形があるが,巨大古墳のほとんどは前方後円墳です。古墳の上には埴輪が並べられ,斜面には石がしきつめられていました。また,周りに濠がある古墳も多い。
 大和政権は大王を中心として豪族たちが政治を行っていました。地方の有力豪族とも連合を組んだ政権である。国内の政治が整い,支配体制として氏姓制度(しせいせいど:「氏−うじ」と「姓−かばね」の制度)がありました。
「氏」−祖先が同じ人々の集団。
豪族たちは大王から「臣(おみ)」「連(むらじ)」「君(きみ)」「直(あたえ)」「造(みやっこ)」「首(おびと)」などの朝廷内での地位を示す姓が与えられ,決まった仕事を行っていました。地方の豪族は国造(くにのみやっこ)となりました。特に有力な氏(蘇我氏や物部氏が有名)は大臣(おおおみ),大連(おおむらじ)とよばれました。
有力な豪族の経済基盤
「田荘(たどころ)」−私有地 を「部曲(かきべ)」−私有民に耕させる
「奴(やっこ)」または「奴婢(ぬひ)」−奴隷(どれい)が存在しました。
 大和政権は積極的に渡来人(とらいじん)たちを受け入れています。その多くは大陸や朝鮮半島から渡ってきており,高水準の技術や文化を日本に伝えました。特に鉄器や須恵器の生産,土木工事,機織りなどの技術に加え,仏教漢字を伝え,その後の日本社会を大きく変えていきます。
                 
 
中央政権に反抗した磐井の乱
 527年,朝鮮半島南部の南加羅地域が新羅に侵略されようとして援軍を出しましたが,筑紫の豪族磐井はこの軍を阻止しました。九州筑紫国で反乱を起こした磐井に対し大和政権は物部氏を大将とする軍を送り戦いが起こります。磐井は敗れ,大和政権の力を全国に示すこととなりました。
                 
 中央でも力の強い豪族が対立を強めていきました。。特に6世紀中頃,蘇我(そが)氏と物部(もののべ)氏が仏教の受容で対立し,争いに発展していきました。
                 
 6世紀末,蘇我馬子と物部守屋の争いは激しく,互いに苦戦となりました。しかし,蘇我氏の血を引く厩戸皇子(うまやどのおうじ =聖徳太子)の活躍もあり,蘇我氏が勝利する。蘇我氏は他の豪族を押さえて朝廷内で最大の権力を持つようになりました。

                 
律令国家作りが始まる
飛鳥時代

仏教文化が花開き,天皇中心の国家がつくられていく

 初の女帝推古(すいこ)天皇が即位し,その摂政を聖徳太子とした。聖徳太子は蘇我馬子と協力して政治の改革を行いました。
聖徳太子の改革

593年 聖徳太子が摂政となりました。
      四天王寺を造営しました。
603年 冠位十二階の制を制定した。
  −家柄ではなく能力のある人を役人に採用する。
604年 憲法十七条を制定した。
  −国の政治を担当する者達の心構えを説いた。
     仏教を敬うことや天皇を中心として一つにまとまることをめざしました
607年 遣隋使を派遣した。
  −小野妹子らを遣隋使として隋(中国)に送り,中国と対等の立場で国交を結ぶことを望んだ国書を隋の皇帝煬帝(ようだい)に渡しました。
  −法隆寺を造営しました。

*代表的な遣隋使  高向玄理(たかむこのげんり),南淵請安(みなみぶちのしょうあん),僧旻(みん)
   

                  

 聖徳太子の没後,蘇我氏の力が実質的に天皇を超えようとしていました。そのため,蘇我氏への反発が増大していきました。そのきっかけとなったのが,聖徳太子の息子である山背大兄王(やましろおおえのおう)の事件。643年,蘇我氏は皇位継承候補(こういけいしょうこうほ)の一人であった山背大兄王に謀反(むほん)の疑いをかけて自殺させた。これによって聖徳太子の一族が滅びてしまう。

                  
蘇我氏から政治権力を取り戻し,天皇を中心とする中央集権国家をつくろう

中臣鎌足 −[協力]→ 中大兄皇子
(なかとみのかまたり)          (なかのおおえのおうじ)
 645年6月12日 飛鳥板蓋宮(あすかいたぶきのみや)の大極殿において,中大兄皇子らが蘇我入鹿(いるか)を殺し,父の蘇我蝦夷(えみし)は甘樫丘の自宅で死んだ。(乙巳の変:いっしのへん)これによって蘇我氏が滅んだ。(この事件を「大化改新」と言うことがあるが,まちがい。これ以降の諸改革のことを「大化改新(たいかのかいしん)」と言うのが正しい。)
                  
 孝徳天皇が即位し,都を難波(なにわ=現大阪)にうつした。中大兄皇子は皇太子となり,実質的に政治の中心に立った。そして,唐からもどった留学生らが政治に参加し,唐の政治にならった国家づくりをおこないました。
646年 大化改新の詔(みことのり)
@公地公民制
 豪族などが所有していた私有地(田荘:たどころ)と私有民(部曲:かきべ)を廃し,国のものとする。豪族に食封(じきふ)を与える。
A地方の行政区画や交通の制度を制定。
 行政区分をはっきりさせる。関所をおく。駅馬・伝馬を準備する。
B戸籍の作成と班田収授法の制定。
 人民を戸籍(こせき)・計帳(けいちょう =台帳)に登録する。6歳以上の男女に口分田を与える。
C調や労役・兵役の義務など新しい税制度の導入。

注 これらがすぐに実施されたわけではない。大宝律令以降に徹底されるようになる。
                  

 難波を離れ,飛鳥に戻った中大兄皇子は斉明天皇を補佐して政治の中心にいました。
 朝鮮半島では新羅(シルラ,しらぎ)が唐と協力して百済を攻めました。百済(ペクチェ,くだら)は日本に救済を求め,それに応じた斉明天皇は九州に出かけ,663年朝鮮半島に援軍を送って戦いました。(白村江の戦い:はくそんこう,はくすきのえ)
 しかし,斉明天皇が亡くなり,百済と日本の連合軍は唐軍に惨敗し,中大兄皇子らは都に戻りました。
 その後,新羅は高句麗(コグリョ,こうくり)をも滅ぼし,唐を排除して朝鮮半島を統一しました。
                        
                 


 朝鮮半島で敗退した日本は九州に水城(みずき)や各地に朝鮮式の山城などを築き,国防を強化して外敵に備えました。667年には大津京(=現滋賀県大津市)に宮をうつし,中大兄皇子が天智(てんぢ,てんじ)天皇となって即位しました。668年には「近江令(おうみりょう)」という我が国最初の「令(りょう)」−一般行政法を定めました。

                   
 
 朝廷内では飛鳥から離れ,独裁政治を続ける天智天皇への不満が高まりつつありました。そんな折,天皇は次の皇位後継者に息子の大友皇子(おおとものおうじ)を指名します。慣例では天皇の弟の大海人皇子(おおあまのおうじ)が後継者となるべきだったのですが,天皇の意を理解した大海皇子は宮を離れ,出家して夫人とともに吉野(奈良県)に移り住むことにしました。
      
                   

 天智天皇の没後,朝廷内の不満は頂点に達しようとしていました。
 672年,大海人皇子は吉野で挙兵し,大友皇子と戦を行いました。(壬申の乱:じんしんのらん)

                   

 壬申の乱に勝利した大海人皇子は飛鳥に宮を戻し,飛鳥浄御原宮(きよみはらのみや)で天武天皇として即位しました。(この頃より倭国→日本,大王→天皇とよばれるようになった)
 天皇の力は絶対的で,豪族たちは天皇に服従しました。天武天皇は上級役人を皇族で固めました。太政大臣は任命せず,大津皇子や草壁皇子など天武天皇の子や皇族を重く用いました。(皇親(こうしん)政治)

                   

 かねてより,唐の都にならった大きな都造りが行われていましたが,持統天皇になって藤原京が完成しました。藤原京は東西約925m,南北約910m,天皇の住居である内裏や政治的儀式などが行われる大極殿,朝堂院がおかれていました。また,朱雀大路が造られ,両側に役人の家が建ち並び,条坊制を採用した本格的な都でした。
 文武天皇の時代,刑部親王(おさかべしんのう)と藤原不比等(ふじわらふひと)らがまとめた大宝律令(たいほうりつりょう)が公布されました。これによって,法律にもとづいて政治が行われるようになりました。(718年には養老律令がつくられた。)天皇を中心とする中央集権国家づくりが完成しました。
 
☆律令制度
律−刑法
令−行政組織,税,労役,官吏の服務規定など

☆組織簡略図 (二官八省)

[中央] 中務省
(なかつかさ)
神祗官
(じんぎかん)
式部省
(しきぶ)
治部省
(じぶ)
太政官
(だいじょうかん)
民部省
(みんぶ)
兵部省
(ひょうぶ)
刑部省
(ぎょうぶ)
大蔵省
(おおくら)
宮内省
(くない)
[地方]
京職(きょうしき)−京の一般民政
摂津職(せっつしき)−摂津国の民政
太宰府(だざいふ)−九州の防衛
 


飛鳥寺


聖徳太子


四天王寺


法隆寺


















飛鳥京




大化の改新


























白村江の戦い








倭国防衛


大津京














壬申の乱

















藤原京

奈良時代

天皇中心の中央集権国家が完成する
 710年,元明天皇は藤原京から平城京へ遷都し,約80年間続く奈良時代が始まりました。
 法により国家を整備することが大切であると考えた朝廷は,大宝律令の完全実施を目指しました。
平城京

 飛鳥時代に天武天皇の命令によって進められていた「古事記」「日本書紀」の編纂(へんさん)が終わる。天皇を神格化し支配の正当性を前面に出しました。
 古事記(712年) 稗田阿礼(ひえだのあれい)が暗記していた神話・伝承を太安万侶(おおのやすまろ)が記録しました。全3巻。日本建国の神話を中心にまとめてあります。
 日本書紀(720年) 舎人(とねり)親王らが編纂しました。神話から持統天皇の時代までの出来事が記録されています。全30巻。

聖武天皇と行基と大仏建立
朝廷 民衆
724年 聖武天皇が即位
 ・律令こそが国家を安定させるものである。
 ・律令制を定着させ,国の立て直しをはかる。

 ・税(租・庸・調)制度の徹底実施を行った。
・税負担が大きく,苦しい生活を強いられていました。
・都までの税の運搬で逃げ出す者もいました。
・政治に対して大きな不満を持っていました。
律令による支配の強化
 政治を批判する者は抑えられた。
行基の登場
仏教によって民衆を救おうと,行基は民衆の前に立ち,仏教の教えを説きました。
行基は都から追放される。
僧侶の仏法を説くことを禁止していたため,
行基の行いは国家への反逆行為。
732年 春・夏−大干ばつ  秋−水害  農作物に大きな被害が出ました。
法の通りに,台帳にもとづき税の徴収をしました。 土地を捨てて逃亡する者が多くなる

一貴族であった山上憶良が地方の役を終えて都に戻ってきました。
民衆の実情を歌(「貧窮問答歌」)にして表しました。
「貧窮問答歌」山上憶良
 天地は広いというけれど,私には狭いものだ。太陽や月は明るいというけれど,私のためには照らしてはくれないものだ。他の人もみなそうなんだろうか。私だけなのだろうか。人として生まれ,人並みに働いているのに,綿も入っていない海藻のようにぼろぼろになった衣を肩にかけて,つぶれかかった家,曲がった家の中には,地面にわらをしいて,父母は枕の方に,妻子は足の方に,私を囲むようにして嘆き悲しんでいる。かまどには火のけがなくて,米をにる器にはクモの巣がはってしまい,飯を炊くことも忘れてしまったようだ。・・・・こんなにもどうしようもないものなのか,世の中というものは。この世の中はつらく,身もやせるように耐えられないと思うけれど,鳥ではないから,飛んで行ってしまうこともできない。
これが天皇を動かし政治も動かしました。
税を減らしました
農民の逃亡はおさまりません。
仏教が民衆の心をとらえています。
  ↓
仏教への考えを改める。
  ↓
律令ではなく,仏教でこそ民衆を治めることができる。
行基が地方で,道路やかんがい工事などの土木工事の指導をしていました。
民衆がこれに進んで参加していました。
天皇が行基を都に呼び,語り合う中で,天皇は心を動かされました。

行基「民衆は仏教を求めています。」
聖武天皇「天地ともに安泰となり,よろずの代までの幸せ
を願う事業を行う。生きとし生けるものがみな栄えることを願う。」

天皇「多くの民衆を助けるために大きな仏像を造る。」
行基「仏教を広めるよい機会だから,協力します。」

743年 盧舎那(るしゃな)大仏造立(ぞうりゅう)の詔
「一握りの土でもいいから持ち寄り,多くの民衆に参加してほしい。」

難工事
大仏建立地
@744年信楽で工事開始
 745年地震・地割れ・山火事

  信楽での大仏建立中止
     ↓
A745年 若草山麓で開始
 天皇自ら民衆の前に進み出て土を運んびました。
     ↓
  民衆が動いきました

 行基没後聖武天皇は僧となりました
行基と弟子たちとの対立








749年2月2日 行基没 82歳
@土台を造り,巨大な木の柱を立てる。
Aこの周りに木材や竹で骨組みを作る。
Bこの上に粘土をつけ,大仏の原型を形作る。
C銅の鋳造作業開始。全国から500トンの銅を集めました。
D大仏を8段に分ける。
E下の段から,大仏の原型の周りに溶かした銅を流し込む。
   銅の炉が爆発・破裂
F金を張る。
752年4月9日 大仏開眼供養
仏教が皇族・貴族のものから民衆にまで広まっていきました。

− 政治の実権を握るために争いが続いた時代 −
実権@ 藤原不比等(ふじわらふひと =藤原鎌足の子) 
       藤原京から平城京への遷都を推進しました。
       養老律令の制定をしました。
          ↓
実権A 左大臣 長屋王(ながやおう =天武天皇の孫) →元正天皇の信頼を得ていたが,不比等の子らの反発があり,謀反(むほん)の罪で自害
          ↓
      大仏を建立した聖武天皇時代となる
    
実権B 不比等の4人の子 →天然痘で死ぬ
          ↓
実権C 橘諸兄(たちばなのもろえ) →
      子 橘奈良麻呂 →クーデターが発覚
          ↓
実権D 太政大臣 藤原仲麻呂(ふじわらのなかまろ=恵美押勝:えみのおしかつ=不比等の孫)→実権をめぐって孝謙上皇と対立し挙兵したが敗退
          
実権E 太政大臣 道鏡(どうきょう)→皇位をねらったが和気清麻呂(わけのきよまろ)によって失脚

土地制度と農民の苦しみ

古墳時代
 氏姓制度 −土地・人民は豪族が私有

大化の改新
 公地公民 −土地・人民は国のもの
 6歳以上の男女は口分田が与えられ,税を払う。
 土地を与えられた者が亡くなれば国に返す。

律令制度の導入
 班田収授により税が重くのしかかる

農民の負担
  租・庸・調(そ・よう・ちょう),雑徭(ぞうよう)
  租−口分田の収穫の3%を稲で納める。
  庸−都で10日の労役か特産物などを納める。
  調−地方の特産物,絹,生糸などを納める。 
  雑徭−地方の土木工事など,1年で60日までの労働。
  兵役−都の警備(衛士:えじ)か九州北部を守る(防人:さきもり)

口分田を捨てる者が増加
戸籍を偽って登録
豪族・有力な農民のもとで働く

三世一身法(さんぜいっしんのほう)
 723年,長屋王が出しました。
 新しく開墾した土地は3世代まで利用してよい。

墾田永年私財法(こんでんえいねんしざいほう)
 743年,橘諸兄が出しました。
 開墾した土地は全て私有してよい。
               ↑
        公地公民制がくずれた


平安時代へ

藤原氏を中心とする貴族政治

武士の登場

平城京

奈良 写真集

東西6q,人口約10万人


大宝律令
約1000条の条文からなり,国が全国の民衆を直接支配する体制づくりをしました。

行基
大阪府堺市の生まれ

行基像 有馬温泉入り口

貧窮問答歌








東大寺大仏殿

高さ16m 仏

右手−生きとし生けるものの
全てのおそれを取り除く

左手−人々の願いを叶える
大仏殿
47m
木造
七重塔
70m
七重塔
70m

正倉院
聖武天皇の遺品が納められています。
この中に,開眼法要の時,天皇が人々共に手に持っていた一本の紐(縹縷:はなだのる)がある。
(聖武天皇と行基と大仏建立について「その時歴史が動いた」参考)

































































平安京