白村江の戦い

663年8月28日、唐・新羅連合軍によって滅ぼされた百済を
復興させるため、最後の戦いが白村江(はくそんこう、はくすきのえ)で起こる

大韓民国 扶余・白馬江の流れ(下記HPより転載)


白村江の戦い
百済と倭国
 6世紀中頃、百済(ペクチェ、くだら)から倭国へ仏教が伝わる。このころ、大陸の文化は百済を経由して倭国に伝わっている。また、人の往来も多く、韓国にある古墳の中には前方後円墳があることや出土品が畿内の古墳と同じものであったりすることから日本から高位の人物も百済に渡っていることが推測される。このように当時の倭国は百済重視の外交をしていた。そして、百済王朝の王子、豊璋(ほうしょう)が倭国にいて、知識人として朝廷で重用されていた。




新羅と唐
 新羅の武烈(ぶれつ)王は即位する前から唐と親交があり、即位してからも唐の制度を国の政治に採り入れるなど唐から信頼されており、唐と新羅は同盟関係にあった。

戦い開始

 655年、朝鮮半島北部で、かねてより対立していた唐と高句麗(コグリョ、こうくり)が戦いを始めた。南部では、百済が新羅(シルラ、しらぎ)へ侵攻したため、新羅は唐に救援を求めた。
倭国
 大化改新の後、皇極天皇の弟孝徳天皇が難波で即位していたが、653年、中大兄皇子は都を飛鳥に戻すことを申し出る。政治の中心は中大兄皇子であり、その力は強大であった。孝徳天皇は飾りにしかすぎなかったともいえる。孝徳天皇は遷都に反対したため、皇子は母皇極上皇、大海人皇子、間人皇后(孝徳天皇の皇后、中大兄皇子の妹)や従者を連れて飛鳥に戻ってしまう。中大兄皇子たちが飛鳥に戻って入ったのが飛鳥河辺行宮(あすかのかわべのかりみや)。

 翌年、孝徳天皇は難波にて崩御する。
亀形石造物(奈良県高市郡明日香村)
 655年、板蓋宮にて斉明天皇(重祚:ちょうそ−皇極天皇が再度皇位に就く)即位。斉明天皇は北の部族「蝦夷−えみし」を抑え、その権力を内外に示そうとした。

 天皇がもっとも力を入れたのが土木工事をともなう都の整備で、溝造りに3万人、石垣造りに7万人を使って、659年に石と水の都を建設する。(狂心の渠:たぶれごころのみぞ などといわれている)この大土木工事は豪族たちの反感を招くことになり、孝徳天皇の皇子で次期天皇の有力候補の1人有間(ありま)皇子のもとにも政治への不信・不満を持った豪族たちが集まる。

 658年5月、斉明天皇が大変かわいがっていた孫の1人で、中大兄皇子の皇子の建王が8歳で亡くなる。この年10月、斉明天皇、中大兄皇子らは和歌山県西牟婁郡にある温泉に出かけた。留守は蘇我赤兄(そがのあかえ)が務めていた。この時、赤兄は有間皇子に斉明天皇の悪政を語り始めた。11月5日、今度は皇子が赤兄宅を訪問し、謀反の相談をした。その夜、赤兄は物部朴井連鮪(もののべのえのいむらじしび)に皇子を捕らえさせ、9日、行幸先の温泉に連行した。11日、19歳の皇子は謀反の企てにより処刑された。(皇子の変
          
660年百済滅ぶ
 659年、斉明天皇は蝦夷を連れた遣唐使を百済と敵対する唐に遣わした。唐はこの時百済に攻め入ろうとしていた。百済は新羅へ再侵攻したが、唐の高宗は新羅の軍とともに百済の都であった扶余(ふよ)に攻め入り、百済の義慈王(ぎじおう)は降伏する。こうして660年7月18日、百済が滅亡した。
 この後、百済使が百済の滅亡を伝えに日本に来航、当時の日本(倭国)にとっては大きな衝撃となった。
 唐は百済を統治し始めるが、それに対抗して、百済の元有力貴族等が反乱軍を結成する。その中心人物となったのが鬼室福信(きしつふくしん)だった。660年10月、鬼室福信は百済王朝を再建させるために倭国に次のような要請をしてきた。
 「631年から人質として倭国にいる王子(豊璋:ほうしょう)を国王位につかせるため送還してほしい。」
 (倭国から百済復興のための援軍を送ってほしい。)

朝倉橘広庭宮(あさくらたちばなのひろにわのみや)へ
 鬼室福信の要請に対して、斉明天皇は百済王朝再建を約束し、自ら飛鳥を出て筑紫(九州)へ移ることにした。筑紫へは、各地で武器を調達し、兵を集めながらの長旅となった。同行者には、中大兄皇子、大海人皇子、大田皇女、額田王、中臣鎌足の他、多数の従者。飛鳥から筑紫への遷都とも考えられる大移動となった。
660年
12月、飛鳥岡本宮発
         ↓
  難波宮で武器の調達
         

661年
1月6日
    難波津(なにわづ)出発
         
         ↓

1月8日
    吉備大伯海(おおくのうみ−岡山県邑久郡)
     (大海人皇子と大田皇女の間に大伯皇女誕生)


         ↓

1月14日
    伊予熟田津(いよにきたづ:愛媛県松山市)着
    石湯行宮(いわゆのかりみや:道後温泉)で長期滞在

         ↓

3月25日
    那大津(福岡県博多)到着
    磐瀬行宮(いわせのかりみや:長津宮ながつのみや福岡市南区三宅に入る 

         ↓

5月9日
    朝倉宮(福岡県朝倉郡朝倉町博多湾からは約40q離れて内陸部にある)に入る
 

(662年、大海人皇子と鵜野皇女の間に草壁皇子が誕生。)
(663年、那大津にて、大海人皇子と大田皇女の間に大津皇子誕生。)


瀬戸内海・瀬戸大橋
(岡山県鷲羽山より)


朝倉橘広庭宮

朝倉橘広庭宮の一部で
天皇が政務をとっていた場所

斉明天皇崩御

御陵山
(福岡県朝倉郡朝倉町大字山田字恵蘇宿)
朝倉宮は麻弖良布(まてらふ)神社の神木を切って造営したため、宮に落雷があったり、宮中に鬼火が出て多くの病死者が出たり、数々のたたりが起こった。

 朝倉宮に来て2か月後の7月24日、斉明天皇が68歳で急死してしまう。
 
木の丸殿の中大兄皇子

 661年7月24日、中大兄皇子は皇太子として喪に服したまま長津宮で戦いの指揮をした。(称制−天皇に即位するための正式な儀式を行わないで政務をとること)

 中大兄皇子は戦いに備え、朝鮮式の山城を築くよう指示。

 661年8月
 前軍将軍 阿曇比羅夫連 河辺百枝臣 他
 後軍将軍 阿倍比羅夫臣 物部熊 他 
 百済の救援軍を送った。

 661年9月、倭国にいた百済王朝の王子、豊璋(ほうしょう)に倭国最高位の「織冠(おりもののこうぶり)」を授け、5000人の兵をつけて朝鮮半島の鬼室福信のもとへ送った。
 


 中大兄皇子は1日を1か月分と代えて考え、12か月分の12日間を喪に服した。

 中大兄皇子が籠もった場所を木の丸殿という。後の時代に、木の丸殿跡に恵蘇(えそ)八幡宮を建て、斉明天皇と天智天皇を祀った。
                                 


木の丸殿跡案内板より


恵蘇八幡宮(福岡県朝倉郡朝倉町)
 

 中大兄皇子(天智天皇)は母斉明天皇を追悼するために観世音寺を建てた。662年に発願し、完成は746年の聖武天皇の代になってからとなったが、ここは九州にある寺院の中心的な存在となった。日本最古の梵鐘があり、国宝。



観世音寺(福岡県太宰府市)


 662年(天智元年)1月
 百済の鬼室福信に武器や物資を送った。

 662年5月
 大将軍大錦中阿曇連比羅夫(だいきんのちゅうあづみのひらぶ)は、天智天皇の命により、軍船170艘を率いて百済の王子豊璋を百済に護送し、王位につけた。
 

将軍 阿曇比羅夫(あずみのぴらぶ)
 白村江の戦いで、百済まで豊璋を護衛した将軍に阿曇比羅夫がいる。
 長野県安曇野市の穂高神社には彼の像がある。
 
 境内の石碑に次のように記されている。
 「大将軍大錦中阿曇連比羅夫(だいきんのちゅうあづみのひらぶ)は、天智元年(662年)天智天皇の命を受け、船師170艘を率いて百済の王子豊璋を百済に護送、救援し王位に即かす。天智2年、新羅・唐の連合軍と戦うも白村江(朝鮮半島の錦江)で破れ、8月申戌27日戦死する。 9月27日の例祭(御船祭)の起因であり、阿曇氏の英雄として若宮社に祀られ、英智の神と称えられている。 伝統芸術である穂高人形飾物は、阿曇比羅夫と一族の勇姿を形どったものに始まると伝えられる。」

 なお、飛鳥時代の将軍阿倍比羅夫(あべのひらふ)は水軍を率いて蝦夷を平定した将軍でもあり、白村江の戦いでは後軍の将軍として百済に派遣されている別人。
 
    
穂高神社
長野県安曇野市穂高6079 


豊璋と鬼室福信の対立

 662年、百済に帰国した豊璋は百済王となり、鬼室福信と協力して戦いを有利に進めた。しかし、だんだんこの二人の考えが合わず不和になっていく。


倭国の援軍

663年3月、中大兄皇子は百済に2万7千人の兵を3軍編成で送った。

将軍  上毛野君稚子(かみつけののきみわかこ)
     巨勢神前臣訳語(こせのかんざきのおみおさ)
     阿倍引田臣比羅夫(あべのひけたのおみひらふ)

 援軍は博多湾から壱岐・対馬を越え、朝鮮半島へ向かった。

 いつも海が穏やかで天気がよいとは限らない。時には荒れ、また、海の流れに逆らって進まねばならない。朝鮮半島への航海は相当厳しいものであったろう。


663年6月、豊璋は、鬼室福信が謀反を起こしたとして部下に命じて殺害した。


壱岐
対馬
白村江の戦い−百済陥落
663年
8月17日
 唐・新羅連合軍が百済復興軍の周留(する)城を包囲。唐軍は軍船170艘を白村江(錦江−クムガン河口)に配備した。

8月27日
 倭国軍が朝鮮半島西岸に到着。

 百済王豊璋と倭国軍は、「我ら先を争わば 彼自づからに退くべし」と突撃作戦に出た。
   
8月28日
 白村江(錦江−クムガン河口)で、唐軍と百済・倭国連合軍が激突。

 倭国軍は唐の水軍によってはさみうちにされ、軍船400隻は燃え上がり、倭国軍は大敗してしまう。(歴史上最初で最大の敗戦となった)
   
 百済王(豊璋)は逃亡してしまう。

9月7日
 百済が陥落し永遠に滅亡した。


668年
 
唐・新羅連合軍は高句麗も滅ぼした。その後、唐と新羅が対立。

676年
 新羅によって朝鮮半島が統一される。

唐・新羅連合軍に敗れた倭国軍は、亡命を希望する百済人を伴って帰国した。
そして、唐・新羅軍の侵攻に備え、防衛準備を始めた。

倭国から日本へ


百済人

 唐との戦いで敗れ、祖国をなくした百済人たちは倭国に亡命した。

 滋賀県蒲生郡は百済人たちが多く住み着いたところ。

 石塔寺の三重塔は、百済の都、扶余(ふよ)にあった定林寺の五重塔の様式と同じといわれる。


石塔寺


百済王族  滅亡した百済の王族たちは奈良地方に逃れたが、その後の動乱から逃れるため再び九州地方を目指して船出した。一行は瀬戸内海で時化にあい、九州東海岸の日向市金ヶ浜と高鍋町蚊口浦に漂着した。そして、山間部に入り、父の禎嘉王(ていかおう)は宮崎県東臼杵郡美郷町に王子の福智王(ふくちおう)は宮崎県児湯郡木城町に移り住んだと言われている。(旧南郷村の「百済王伝説」より)
 百済の都だった「扶餘」の王宮跡に建てられた「客舎」をモデルにして、日韓交流のシンボルとして「百済の館」が造られた。

百済の館
(宮崎県東臼杵郡美郷町)

 神門(みかど)神社は718年(養老2年)創建されたと伝えられ。祭神として百済の王禎嘉王(ていかおう)が祀られている。
 この神社で行われる行事として「師走祭り」がある。禎嘉王とその王子が1年に1度再会する様子を再現したものという。比木神社を出て、神門神社まで10日かけて移動するものだったそうだが、現在は3日間となった。毎年1月(旧暦の12月)に行われている。

神門神社
(宮崎県東臼杵郡美郷町)

 父王禎嘉王(ていかおう)の墓とされる古墳で南北10m、東西10mの円墳


塚の原古墳

鬼室神社

 百済の将軍 鬼室福信の子、鬼室集斯(しゅうし)は朝廷内で現在の文部科学大臣にあたる「学識頭」を務めた。集斯の墓碑は蒲生郡日野町にある鬼室神社本殿の裏にある。


鬼室神社(円内は墓碑が納められた堂)



 唐との戦いで敗れた倭国は、天武天皇の時代になって「日本」と呼ぶようになり、政治の方針を大きく変えていく。 日本は唐の優れた政治制度を学び、律令国家を目指した。この歴史からも、強い国に学び、優れた文化、政治制度、技術などを導入して独自のものに替えていく日本の姿を見ることができる。


倭国防衛
西日本各地に残る古代山城の跡

・参考 
 NHKテレビ「その時歴史が動いた−白村江の戦い」、教育セミナー「歴史で見る日本」
 大宰府展示館パンフレット
 「日本の国宝」週刊朝日百科23 朝日新聞社
    
・画像「扶余・白馬江の流れ」は趙義成の朝鮮語研究室より許可を得て掲載させていただきました。
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