斉明天皇と道教

 古代中国では,儒教,仏教,道教が広まっていた。

 教はBC6世紀ごろに孔子を祖として生まれ,政治・道徳理念を説く。「礼」「徳」「仁」を重んじ,祖先や親子・兄弟を大切にする「孝」を基本とした。前漢時代に武帝によって国教となった頃が全盛期。

 教はシャカを祖として生まれ,1世紀ごろ外国(インド)から入ってきた新しい思想だが,インド仏教は中国独自の仏教へと変化していった。隋・唐の時代には多くの寺院が建立され,全盛期を迎える。

 教は5世紀中頃,民間信仰が基になって成立した。自然のまま生きるという「無為自然」を説いた老子−姓は李(り),名は耳(じ)−を祖としているが,2〜3世紀の五斗米道(ごとべいどう)という呪術的な活動を起源とする。老子・荘子中心の道家思想や不老長寿を目指す神仙思想とも結びついている。唐時代,王の姓が老子と同じ「李」だったので,老子を祖先とし,道教を重んじた。

明日香村にあるなぞの石造物(一部)
飛鳥石像物 飛鳥石像物 飛鳥石像物 飛鳥石像物 苑池跡出土石造物
須弥山石(複製)
(しゅみせんせき)
酒船石
(さかふねいし)
亀石 猿石 出水の酒船石
(複製)
石人像
(複製)
飛鳥京苑池石造物


万葉文化館前から多武峰方向を見る
談山神社
多武峰・談山神社
 斉明天皇は道教を好んでいた。後飛鳥板蓋宮に移ったころ,多武峰(とうのみね)の2本のケヤキの大木がある辺りに道教の「道観(どうかん)」(日本書紀では「観(たかどの)」と記述,仏教では寺院のこと)を建て,「両槻宮(ふたつきのみや)」とした。この宮を天帝の宮殿である「天宮(あまつみや)」ともよんだ。

 道教では「天宮」を仙人たちが住んでいる天上の宮を意味し,仙人の宮は不老不死の理想郷である。「槻(つき)」はケヤキの木で,特にその大木は神が宿ると考えられていた。多武峰に2本のケヤキの大木があり,その近くに宮を造ったと推測される。多武峰には仙人が住んでいる特別なところだったのだろう。

 この多武峰の回りを囲むように垣が造られ,冠のように見えた。この垣に見立ててもよいと思われる石垣が亀形石造物の周辺から出土している。

 後の時代,多武峰の山頂に藤原鎌足を祀った談山神社が建てられた。

吉野川
 道教では最高神を「天皇大帝」と称した。これがもとになって「天皇」という称号が生まれた。いつから「天皇」と呼ぶようになったかが問題だが,日本書紀が書かれた時代はすでに「大王」ではなく「天皇」と称されていたので,一般的には天武天皇からとされている。日本書紀では天武天皇以前の大王の記述の際も「天皇」という称号を使っているが,斉明天皇と道教とのつながりが深かったことを考えて,実際は天武天皇より前の斉明朝から使われていたのではないか推測する。
 吉野は聖なる地−神仙境とされ,斉明天皇はここに離宮を建てた。吉野近くの宇陀から東吉野にかけては水銀の産地であり,吉野でも水銀朱が採れた。水銀朱を加熱すれば水銀ができる。水銀朱は道教でいう不老長寿の薬とされ,聖なる水−水銀朱の混ざった水を飲むことで若さが保たれると考えられていた。朱の赤色は中国では皇帝の色。日本では古墳時代より身分の高い人物に使われている色でもある。
亀形石像物
亀形石造物

亀形石造物周辺の石段

「狂心の渠」があったと思われる場所

石垣跡(天理砂岩が使われている)
 2000年2月に奈良県高市郡明日香村の酒船石遺跡から亀形や小判形石造物が発見された。
 亀は長寿のシンボルでもあり道教の神仙思想につながる。不老長寿の仙薬がある三神山の一つ「蓬莱山(ほうらいさん)」は亀の背中に乗っていると言われる。国際日本文化研究センターの千田氏は著書「飛鳥・藤原京の謎を掘る」の中で,「多武峰は天宮であるから蓬莱山になぞらえることができ,その麓にそれを支える大亀を配置した(プロローグより引用)」と解説した。つまり,亀形石造物が発見された場所一帯は神仙境に見立てたとも考えられる。






 この時代,斉明天皇は石を使った広大な庭園や,後に「狂心の渠」(たぶれごころのみぞ)といわれる運河をのべ3万人を動員して造っている。隋の煬帝(ようだい)は大運河の建設や高句麗との戦いで人々を苦しめたためにやがて国が滅んでしまうが,「狂心の渠」も同じかもしれない。斉明天皇はこの運河を利用して,200艘の船で石上山(いそのかみやま:天理市石上神宮付近)の石を宮の東の山に運んで石垣を造った。(「日本書紀」の斉明2年(656年)の条には「宮の東の山に石を累ねて垣とす」とある。)この石垣の造営にはのべ7万人が動員された。





 斉明天皇は他に吉野にも宮を造営しており,土木工事や建設工事を好んで行った。
 宮や庭園の建設には多くの石が用いられているが,石には特別な意味があったのかもしれない。石のもつ永遠性に不老長寿を重ねることができるだろう。




 現在明日香村にある様々な石造物のいくつかは,この斉明天皇が建設した都を構成するものと考えられている。

銅鏡に見られる仙人たち

 銅鏡はそれを持つ人の権威を示すもの。これを同盟を結んだり,服属したりした証として大王から各地の王に授けられた。
 地方の古墳でこれらの鏡が出土すれば,中央とのつながりが深かったことを示すことになる。
黒塚古墳出土29号鏡 三角縁神獣鏡(さんかくぶちしんじゅうきょう)
黒塚古墳29鏡 黒塚古墳神仙
左「大古墳展−ヤマト王権と古墳の鏡」より獣文帯四神四獣鏡(黒塚29号鏡) 橿原考古学博物館転載許可
右 黒塚古墳の竪穴式石室全景と遺物の出土状況(天理市ホームページより転載 市承諾済)
写真の複写・転載禁止

黒塚古墳(奈良県天理市柳本) 全景
 黒塚古墳から直径23p前後の三角縁神獣鏡が大量に出土し,有名になった。三角縁神獣鏡は卑弥呼が中国の魏(ぎ) の国から与えられた鏡といわれているため,邪馬台国がこの地方にあったとされる畿内説の有力な証拠とされている。鏡の縁を横から見るとのように三角形になっているのでこの名がついた。
 写真の鏡は,獣文帯四神四獣鏡(じゅうもんたいししんしじゅうきょう)で,主文帯に神仙と神獣が乳(にゅう)とよぶ突起によって区切られて配置され,その外側の副文帯に「天王」「日月」の文字と獣が並ぶ。真ん中の丸いふくらみは「紐(ちゅう)」で飾りのひもを通す部分。

黒塚古墳後円部
 黒塚古墳(天理市柳本町) 大和古墳群に属する
3世紀末〜4世紀前半に造られた前方後円墳で全長130m 後円部径72m 前方部高さ6m 
長さ約8.3mの大規模な堅穴式石室
 三角縁神獣鏡は木棺外側の北側にコの字形に囲むようにあり,鏡面は棺に向けて立ててあった。「同出徐州,師出洛陽」(中国の徐州からでた銅を使い,洛陽の職人が作った)という意味の文字が書かれた鏡も発見された。他に鉄製の刀剣,矢鏃(やじり),武具など出土している。

 古墳の内部を見ることができないが,2002年に天理市立黒塚古墳展示館がオープンし,復元された石室や神獣鏡を見ることができる。

現在は石室を見ることができない
神獣鏡には仙人や獣,伝説上の帝などが描かれている。
(上の写真の部分拡大)
黒塚古墳神仙 黒塚古墳神仙
東王父(とうおうふ) 
東方・太陽・男性を表す
中国から見て東にある大海中の山に住んでいる。
西王母(せいおうぼ) 
西方・月・女性を表す
西の昆崙山(こんろんさん)に住んでいる。
玉勝(ぎょくしょう)という玉製の髪飾りが特徴
 不老長寿は人間にとっての最大の望みであるが得ることはできない。しかし,神仙の世界には仙薬があって,それを飲めばだれでも長生きできると考えられていた。仙薬は西の昆崙山(こんろんさん)に住む西王母(せいおうぼ)が持っており,また,東方の海に三神山(「蓬莱(ほうらい)」「方丈」「瀛州(えいしゅう)」)があって,そこに住む仙人が持っているとされた。(仙人が住む三神山は浦島太郎が亀にの背に乗って行った海中の竜宮城につながる話でもある)
 古代中国秦の時代,始皇帝から多額の資金援助を受けた「徐福(じょふく)」が不老長寿の仙薬を求めて東方へ旅立った。男性は東王父に不老不死の薬を求めなければならない。徐福は渤海から東を目指して旅立ったのだろう。しかし,結局たどり着いた場所に住み着いてしまい,中国に戻らなかったという伝説がある。日本各地に徐福伝説が残っているが,この東方の地は日本であったとも言われている。東方にあるという蓬莱山は不死の山で不死山=富士山ではなかったか。

八角形の古墳

 現在は木々や草で覆われ確認できないが,天武・持統天皇陵,牽牛子塚(けんごしづか)古墳(斉明天皇陵ともいわれる),天智天皇陵(京都山科),束明神古墳(草壁皇子陵とされる),中尾山古墳(文武天皇陵)などは他の古墳には見られない八角形の形をしている。これらは斉明天皇が好んだ道教の宇宙観の表れとも見ることができる。

 古代中国では八方位を重要視していた。八方位は宇宙を象徴するものであり,その中心にある北極星は天皇大帝(てんこうたいてい)という宇宙の最高神とみる。この頃に「天皇」は神につながる人物として意識されるようになったのだろう。

 天武天皇に関わる古墳は多くが八角形であり,逆に八角形の古墳の被葬者は天武天皇と血のつながりがある「最高神」として見られていたと推測できる。

 2010年9月,明日香村教育委員会は牽牛子(けんごし)塚古墳の発掘調査から,墳丘外周を八角形に巡る敷石帯などが見つかったと発表した。墳丘の底面は対辺約22メートルの八角形となることが分かった。「中大兄皇子(天智天皇)の母・斉明天皇とその娘間人皇女の合葬陵であることが考古学的見地で確証的レベルに達した。」としている。

天武・持統天皇陵

天智天皇陵
八方位図

束明神古墳
束明神古墳石室復元
束明神古墳石室復元
(橿原考古学博物館)

中尾山古墳
牽牛子塚古墳
牽牛子塚古墳

 日本書紀の記述によると,斉明天皇は白村江の戦いの時九州への遠征を行っているが,そこでの宮を立てる際に神社の神木を切ったため数々のたたりが起こり,それがもとで亡くなってしまった。朝倉宮に来て2か月後の7月24日,斉明天皇が急死,68歳だった。
 福岡県朝倉郡朝倉町に御陵山と呼ばれるところがあり,ここに葬られたとされている。その後奈良に改葬されている。

御陵山(福岡県朝倉郡朝倉町大字山田字恵蘇宿)
 斉明天皇陵は奈良の牽牛子塚(けんごしづか)古墳とする説もあるが,宮内庁は下のようにしている。

 越智崗上陵(おちのおかのえのみささぎ

・斉明天皇陵
・天智天皇皇子 建王墓(たけるのみこのはか)
・孝徳天皇皇后間人皇女(はしひとのひめみこ)
 合葬されている

奈良県高市郡高取町大字車木

越智崗上陵
 越智崗上陵から下に降りた越智崗上墓(おちのおかのえのはか)
には天智天皇の皇女(大津皇子母・持統天皇の姉) 太田皇女の墓がある

越智崗上墓
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