聖徳太子


聖徳太子像
市神神社 (滋賀県東近江市八日市本町)
 92年,推古天皇が豊浦宮(とゆらのみや)で即位し,甥(おい)の廐戸皇子(うまやどのみこ−「聖徳太子」)が皇太子となった。廐戸皇子は推古天皇の摂政となり,政治を行った。聖徳太子は大王(天皇)中心の政治をめざし,遣隋使派遣,冠位十二階や十七条憲法を制定した。また,四天王寺・法隆寺などを建立した。

 鳥時代は渡来人が活躍した時代でもある。その渡来人たちが伝えた仏教は日本に大きな影響を与えた。
 大和王権の有力な豪族に蘇我氏と物部氏がいる。蘇我氏は渡来人の東漢氏(やまとのあやうじ)や西文氏(かわちのふみうじ)とつながり,大陸の文化を多くとりいれようとしたり,仏教を崇拝し自宅に仏像をおいたりした。物部氏は石上神宮を氏神とし,中臣氏や忌部氏とともに排仏を主張した。こうして蘇我氏と物部氏の対立が激しくなっていく。この動乱の中で廐戸皇子が登場し,大王を中心とした争いのない国づくりを目指していく。

国内の情勢 
(* 「大化の改新」・「仏教伝来」のページと一部重複)
この時代日本は「倭国」と呼ばれていたので,本文中の記載も前後の事実を考えて使い分けている。

大和の豪族

物部尾輿と
蘇我稲目

 大和王権下において,有力な豪族たちの集団を「氏:うじ」といい,「氏上:うじがみ」(一族の首長的地位)を中心としてまとまっていた。また,氏上は大和王権の構成員であり,それぞれの地位応じて「臣:おみ」「連:むらじ」「宿禰:すくね」「造:みやっこ」というような「姓:かばね」を授けられていた。これを「氏姓制度」という。「姓」の中でも特に,「臣:おみ」「連:むらじ」を賜(たまわ)った豪族は大和王権の中心部にいた。葛城(かずらぎ),平群(へぐり),巨勢(こせ),蘇我(そが),大伴(おおとも),物部(もののべ)などは大和王権における有力な豪族だった。そして,最も力のある豪族には「大臣:おおおみ」と「大連:おおむらじ」という位を授けられていた。軍事や裁判を担当していたのが「大連」の物部氏(物部尾輿:おこし),財政や外交を担当していたのが「大臣」の蘇我氏(蘇我稲目:いなめ)だった。
 蘇我稲目は奈良県飛鳥地方を拠点として全国に進出していった。飛鳥地方の檜隈(ひのくま)には東漢氏(やまとのあやし)という渡来人が多く住んでおり,大陸の技術を伝えた。蘇我氏は彼らと結びつくことで勢力を伸ばした。また,二人の娘を欽明天皇の妃(きさき)とし,天皇の外戚(がいせき)として地位を確固たるものにした。


奈良県高市郡明日香村

仏教伝来

 538年(552年説もある),百済の聖明王の使いで訪れた使者が欽明天皇に金銅の釈迦如来像や経典,仏具などを献上したことが仏教伝来の始まり。天皇は礼拝すべきかを臣下たちに問うと,大陸の優れた文化である仏教を受け入れるべきと蘇我稲目が答えたのに対して,物部尾輿や中臣鎌子らは外国の神を受け入れれば,日本古来の「神(国つ神)」が怒るという理由から,仏教に反対し,徹底的に排除するべきと言った。そこで天皇は試しに拝んでみるようにとこれらを蘇我稲目に授けた。稲目は小墾田の自宅に安置し,向原(むくはら)の家を浄めて寺とした。この時より向原の家は日本最初の寺となった。
 国内で疫病が流行った時,尾輿はその原因が仏教のせいだと批判した。そのため,570年に稲目が死去すると,天皇の許可を得て稲目の寺を焼き払った。家は焼けても仏像は燃えなかったため,仕方なくこれを難波の堀江に投げ込んだ。しかし,疫病はなくならず天災も続いた。
 後に推古天皇はここ向原の地を宮とした。小墾田の宮に移った後は豊浦寺(とゆらじ)となった。


向原寺(向原家・豊浦宮・豊浦寺跡)
 物部尾輿が仏像を投げ捨てた池と伝わるのが難波池。当時ここは難波の堀江とよばれていた。
 投げ捨てられて池に沈んでいた仏像は信濃の国から都に来て,この池の前をたまたま通りかかった本田善光(ほんだよしみつ)という人物によって発見される。
 長野の善光寺縁起によると,仏像は聖徳太子の祈りに一度だけ水面に現れたが再び底に沈んだままとなっていた。しかし,本田善光が池の前に来ると,金色の姿を現し,善光こそ百済の聖明王の生まれ変わりであると告げる
。善光はこの仏像を背負い信濃にもどり自宅に祀った。これは善光寺の創建に関わる話である。

難波池

聖徳太子の生涯

 大聖勝軍寺 (大阪府八尾市)

以降の記載内容は,「日本書紀」及び日本最古の伝記とされる「上宮聖徳法王帝説」の解釈本を参考にしている。
 584年,百済から鹿深臣(かふかのおみ)が弥勒菩薩(みろくぼさつ)を持ってもどってきた。蘇我馬子は仏殿を建ててそれを収めた。敏達(びだつ)天皇が崇仏に同意したこともあって,蘇我氏対物部氏の対立が再び激化する。
 父稲目の時代と同じでこの時も疫病が流行り始めた。585年,物部守屋(もりや−物部尾輿の子)は敏達天皇に仏教が原因と訴えると天皇もこれに同意したため,守屋は仏像・仏殿を焼き払ってしまった。しかし,この後も疫病は続き,天皇までも病死してしまう。続く用明天皇も病死し,その後継者をめぐって,蘇我氏と物部氏の対立は宗教対立からやがて武力衝突へと発展する。いよいよ互いの権力争いに決着をつけねばならなくなった。
 587年,とうとう蘇我氏は物部氏など廃仏派の豪族たちと戦い,物部守屋をはじめとする有力豪族を滅ぼした。こうして,大和王権における蘇我氏の権力が確立した。この戦いには蘇我氏の血をひく14歳の廐戸皇子(うまやどのおうじ:後の聖徳太子)も蘇我氏とともに戦った。
「聖徳太子」は太子の死後に贈られた諡号(しごう)で,生前は廐
戸皇子(うまやどのみこ)あるいは上宮太子(じょうぐうたいし)とよばれていた。(このページでは摂政になる以前を「戸皇子」「皇子」,以後を「聖徳太子」「太子」と記述した。)

570(欽明31)年 
 
・29代欽明天皇と蘇我稲目の子(堅塩媛−きたしひめ)との間に生まれた橘豊日皇子(たちばなのとよひのみこ−後の用明天皇)は欽明天皇と蘇我稲目の子(小姉君−おあねのきみ)との間に生まれた穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ:「はしうど」と読むこともある)を妃とした。
571(欽明32)年
正月元日,穴穂部間人皇女の夢の中に「救世観音菩薩」と名乗る僧侶が現れ,妃の腹に宿りたいと申し出た。この申し出を承諾すると目が覚めたが,のどの奥に違和感を感じていた。この夢の話を聞いた橘豊日皇子は「きっと聖人を生む」と語った。このとき妃は妊娠していた。
妊娠して8か月が経ったとき,お腹の中から胎児の言葉が聞こえてきて周囲を驚かせた。
574(敏達3)年 (572年に誕生の説もあるがここでは「帝説」に従った)
 ・欽明天皇の離宮のあった橘寺で廐戸豊聡耳皇子(うまやどのとよとみみのみこ−戸皇子・厩戸皇子・聖徳太子)が誕生した。戸皇子の父方も母方も祖母は蘇我稲目の娘であり,蘇我氏の血をきわめて濃く受け継いでいた。
正月元日,間人皇女が宮中を散歩していたときのこと,馬小屋の前で急に産気づかれ,出産してしまった。侍女たちがあわてて赤子を寝殿に入れると,西方より赤や黄色の光が明るく照らし,寝殿はよい香りが漂った。12か月もお腹にいて生まれた赤子は元気な男の子だった。この赤子は手に仏舎利を握りしめていた。懐妊や馬小屋で誕生の話はなぜかイエス=キリストの誕生に似ている。
この年の4月にはもう言葉を発していた。最初の言葉は「私は救世観音であり阿弥陀如来でもある」,「未だ仏教の伝わっていない倭国が哀れなので,仏教に反対する者を誅して仏法を興す。」であった。
 
橘寺・伝聖徳太子生誕地  左 秋・彼岸花   右 春・桜  (奈良県高市郡明日香村)
575(敏達4)年 2歳
2月15日の夜明け前,一人目を覚ました皇子は東方に向かって小さな手を合わせ,「南無仏」と念仏を唱えたという。このとき,それまで握りしめていた仏舎利が地面に落ちた。この仏舎利が法隆寺にあるらしい。夜明け前に念仏を唱えることは7歳になるまで続いたと言われている。
576(敏達5)年 3歳
皇子が父母とともに御園で遊んでいたときのこと,父が「桃の花と松葉とどちらを愛でるか」と問うと,皇子は「松葉」と答えた。「桃は一時だけきれい花を咲かせるがすぐに散ってしまう。松葉は万年葉をつけている。」と言うと父は皇子を抱き上げた。
577(敏達6)年 4歳
小さな王子たちが庭で騒いでいたので,橘豊日皇子は怒って笞(むち)を持って追いかけた。そのとき,皇子一人が衣服を脱いで皇子の前に立った。「どんなに階段を高くしても天までは届かない。どんなに深く穴を掘っても身を隠すことはできない。ならば,自ら進んで笞でうたれましょう。」これを聞いて母は涙して皇子を抱きしめた。
578(敏達7)年 5歳
敏達天皇が豊御食炊屋姫(とよみけかしきやひめ)を皇后とした祝いの席で,皇子は大臣の蘇我馬子らの群臣より先に皇后に正しい儀礼によって奉拝した。侍女があとで皇子にこのわけを尋ねると,「この方は後に天皇になる」と答えた。皇子は豊御食炊屋姫が後に推古天皇となることを予見していた。
579(敏達8)年 6歳
百済から大別王(おおわけのおおきみ)が経論を持って帰国した。その奏上を奥で聞いていた皇子はそれらを見たいと天皇に申し出た。このとき,皇子は「前世は漢の衡山(こうざん)に住み,何十回も転生を繰り返して仏道を修行した」と語った。あまりに不思議な話であったが,経論を見ることを許可すると,瞬く間にこれらを読んでしまった。
584(敏達13)年 11歳
童ら36人との遊びの中で,彼ら全員が順にしゃべる言葉を一語一句まちがえず復唱した。これを聞いた童らの親が試しにわざと難解な語句を言わせても,皇子はそれらを聞き分けて復唱した。
585(敏達14)年 12歳
 ・用明天皇が即位する。
体から光明を放つと言われる日羅(にちら)が来朝したが,天皇は皇子が日羅に会う許しを出さなかった。そこで,皇子は体を汚し,粗末な服を着て,多くの童らに混じって日羅の家に出かけた。しかし,どのような格好で出かけても,日羅は童たちの中にただ者ではない者がいると見抜いてしまった。そこで,皇子はすぐに帰宅して,失礼の無いよう正装し再訪問した。再訪した皇子の前で日羅が合掌すると,日羅の体が光り,皇子の眉間からは光が放たれた。後に皇子は日羅のことを「前世はわたしの弟子であった」と語った。

案内板より
上之宮遺跡(奈良県桜井市上之宮)
戸皇子は用明天皇に愛され,少年期から青年期にかけて,天皇の宮(池辺宮:いけのべのみや)の南にあった上宮(かみつみや)で過ごした。桜井市上之宮の発掘調査によって,掘立柱建物跡と排水溝,園池遺構を含む一辺が約100m四方の住居跡が見つかった。ここが皇子が過ごした上宮の跡ではないかと言われている。
 
587(用明2)年 14歳
 ・用明天皇は病気回復を願って仏教に帰依しようと群臣に相談した。蘇我馬子は賛成したが物部守屋や中臣勝海らは大反対した。これは武力対立へと発展するもとになっていった。
 ・用明天皇が崩御する。

孝養(きょうよう)太子像(飛鳥寺)
父,用明天皇の病気回復を祈願した姿
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587(用明2)年 14歳
 ・物部守屋は穴穂部皇子(あなほべのみこ)を次期天皇にしようとしていたが,蘇我馬子は額田部皇女(後の推古天皇)を後継とし,穴穂部皇子や皇子とつながっていた宅部皇子(やかべみこ)を殺害した。こうして物部氏と蘇我氏の対立が激化する。
7月,大和の蘇我馬子と大阪河内の物部守屋が武力闘争を始めた。(丁未の変:ていびのへん)
この戦いでは戸皇子や泊瀬部皇子(はつせべのみこ−後の崇峻天皇),竹田皇子らの蘇我氏の血を引く皇族も蘇我馬子の軍に加わった。また,紀氏,巨勢氏,膳部氏,葛城氏,大伴氏,安倍氏,平群氏などの有力豪族も蘇我氏軍について戦った。
 
蘇我軍は志紀郡(藤井寺市,柏原市あたり)から物部氏の本拠地であった渋河(渋川)の館(八尾市)に至った。守屋は子弟と奴の軍隊を率いて稲を積んだ砦−稲城(いなぎ)を築いて戦った。衣揩(衣摺:きずり)で榎木(えのき)の木股(また)に登り,矢を雨のように射た。この攻撃に対し,蘇我の軍勢は3度も敗退している。(衣揩の戦いともいう)

戦に敗退し,物部軍に追われた皇子が椋の木の下で念ずると大木が二つに割れて太子の身を隠した
割れた木の中に戸皇子の像が見える(左上円内)(大聖勝軍寺 大阪府八尾市)

この後,皇子らは信貴山に逃げ込む。そこで,白膠木(ぬるで:ウルシ科の落葉小高木)で四天王像(仏教での守護神とされる持国天,増長天,広目天,多聞天)を彫り,ひょうたんのような形に結っていた頭髪に入れた(髪にしばりつけたのかもしれない)。そして,皇子はこの戦に勝ったなら四天王のために寺塔を建立すると誓った。また,この時蘇我氏も戦勝後の寺院建立を誓った。

信貴山歓喜院朝護孫寺(奈良県生駒郡平群町)

再び体勢を整えた皇子は,河内の渋河で守屋の軍勢に猛攻撃を行った。この時守屋は木の上から矢を放っていたが,蘇我軍の迹見赤檮(とみのいちい)から放たれた矢が命中,守屋は木から落ちた。すかさず秦河勝(はたのかわかつ)が守屋の首を切り落とした。そして,その首を池で洗い本陣に持ち帰った。
 
戸皇子の身を隠した椋の木のあった場所には,椋樹山大聖勝軍寺(大阪府八尾市)が建立された。 境内には守屋の首を洗った守屋池がある

こうして,蘇我馬子・戸皇子軍は物部守屋を滅ぼした。

蘇我氏対物部氏の関係図

物部守屋生存伝説がある
波久奴(はくぬ)神社
(東浅井郡浅井町高畑)
西池(東浅井郡浅井町高畑)
蘇我氏に破れた物部守屋は東浅井郡浅井町まで漆部小阪を伴って領地の田根之荘に逃げてきた。そして,池奥の山中にある洞穴に隠れ住んだ。ここを「本宮の岩屋」と呼んでいる。食事の世話は村人が行った。守屋は食べるものに困らないよう,凶作に備えてため池を造らせた。そのため池が西池で,今も残っている。守屋はここで萩生翁と自称して暮らした。村人は守屋に対して恩を感じ,神社に祀ったと語り継がれている。
 
588(崇峻2)年 15歳
 ・戦勝の誓いに従い,蘇我氏は法興寺(飛鳥寺)の建設を始めた。
589年
 ・隋が中国全土を統一した。(都は西安(長安),初代皇帝は文帝)

西門跡より飛鳥寺を見る

 丹後半島(京都府竹野郡丹後町)に「間人」と書く地名がある。これを「たいざ」と読む。
 蘇我氏と物部氏との争いの間,聖徳太子の生母の穴穂部間人皇后(あなほべのはしひとのみこ)は乱を逃れて「大浜の里」にいた。争いが終わり間人皇后は斑鳩にもどることになったが,里の人々の厚いもてなしに感謝して自分の名をこの地に残し「間人(はしうど)」と名付けられた。しかし,里人はあまりにおそれおおいことだから,「大浜の里を退座された」ということから間人を「たいざ」と呼ぶようになったと伝わる。丹後町の観光地でもある立岩を見る海岸に間人皇后と聖徳太子の母子像が立っている。(聖徳太子はこの時14歳であり像の姿とは合っていないように思われる。また,ここを訪れたかどうかは不明。)

京都府竹野郡丹後町 立岩

592(崇峻5)年 19歳
 ・11月−蘇我馬子は東漢直駒(やまとのあやのあたいこま)に崇峻天皇を殺害させる。東漢直駒が馬子に殺害される。
 ・12月−推古天皇が豊浦宮(とゆらみや)で即位する。 

豊浦宮(豊浦寺)跡
593(推古1)年 20歳
 ・4月−聖徳太子が皇太子となり,推古天皇の摂政となる
  ☆聖徳太子には特別な才能があったとされる。そのため,推古天皇の子を皇太子とするのではなく,聖徳太子にその重要な役割を担わせた。摂政とは天皇にかわって政務を行う官職で,推古天皇の命によって聖徳太子が最初の摂政となった。これにより,蘇我氏の独断で行われていた政治を正すこともできた。また,太子は,天皇と豪族との関係も正していった。
 ・聖徳太子,難波の荒陵(あらはか)に四天王寺を建造する。

四天王寺(大阪市天王寺区四天王寺)

四天王寺寺式伽藍配置
593年(推古天皇元年)に聖徳太子によって建立された日本最初の官寺。中門,五重塔,金堂,講堂が一直線に並べ回廊が囲む四天王寺式の伽藍配置が特徴。蘇我氏と物部氏との戦いの際,当時16歳の戸皇子は四天王尊像を彫って,「戦いに勝てば四天王像を安置する寺院を建立しよう」と戦勝祈願した。誓願がかない,四天王寺を建立したとされる。

四天王寺に今も残る飛鳥時代の排水溝跡
594年(推古2)年 21歳 
 ・2月−仏教興隆の詔を発する。 
 ・寺院建立にふさわしい地を求めて近江(滋賀県)に立ち寄った。
   
石馬寺 駒つなぎの松 石馬の池
石馬寺(いしばじ−滋賀県五個荘町)
太子は乗ってきた馬を松の木につないで山に登ったところ,馬が池に落ちて沈んでしまい,やがて石になるのを見た。石馬寺入り口にはその池と石になった馬の背が残っている。

595(推古3)年 22歳
 ・5月−高句麗の僧恵慈(えじ)が渡来して聖徳太子の師(仏教を教えた)となった。特に隋のことは詳しく伝え聞いたとされる。(615年帰国)
  (もう一人の師として覚煤iかくか)がおり,儒教を学んだが詳細は不明)
 ☆聖徳太子が恵慈らから知り得たこと
  隋は仏教を暑く保護している。
  長安には寺院が多くあり,仏教文化が花開いている。
  中央集権国家が完成しており,官僚の規律として儒教が重んじられている。
 ☆このころの倭国
  政治は有力豪族の思いのままになっている。
  豪族が土地,山,海を財産とし,民を私有している。民はみな飢えている。

596(推古4)年 23歳

 ・11月−法興寺(飛鳥寺)が完成する。

飛鳥寺−蘇我氏が建てた日本最初の仏教寺院

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飛鳥寺式伽藍配置
現在の飛鳥寺は本堂が残されているのみだが, 当時は,東西210m,南北320m,塔の高さ40m,3つの金堂を持つ大寺院だった。
600(推古8)年 27歳
 ・中国大陸との外交を結ぶため,初めて遣隋使を派遣した。(第1回遣隋使は隋書に記載されている)
 ☆随は598年,朝鮮半島の高句麗が隋に侵入してきたため,逆に高句麗を攻め滅ぼした。これは朝鮮半島の他の国や倭国にとって脅威(きょうい)となった。倭国はこれまで朝鮮半島との国交を大切にし,様々な文化や技術は朝鮮半島経由で入ってきた。太子は隋の進んだ文化や政治制度に目を向け,直接隋からそれらを取り入れることを考え遣隋使の派遣となった。しかし,隋の文帝は倭国の使者の言葉を聞いて,倭国が何もわからない国と知り,国交を結ぼうとはしなかった。太子は外交が失敗したことを知る。
601(推古 9)年 28歳
 ・2月−聖徳太子,斑鳩宮を建造する。
 ☆朝鮮半島の南部に任那(みまな:または伽耶かや)という当時の倭国にとっては重要な土地(ここが天皇家の「故郷」とする説もある)があったが,東の新羅(しらぎ・シルラ・シンラ)に奪われてしまった。そこで新羅を攻めて任那を奪回しようと新羅征討を進めた。あくまで新羅征討を主張する蘇我氏に対して,聖徳太子は方向転換して友好関係を結ぶことも大切と考えていたため二人が対立した。そのため,太子は飛鳥を出て斑鳩に宮を造営したとされる。斑鳩の地から難波への道が整備されたため,斑鳩は外交の玄関難波と都の間にあって,二点を結ぶ要所でもあった。

夢殿(奈良県生駒郡斑鳩町)
聖徳太子の斑鳩宮の跡に行信僧都(ぎょうしんそうず)が739年に建てたのが上宮王院(じょうぐうおういん)。中心的建物に八角円堂の夢殿が建つ。太子はここに籠もって瞑想することがあった。
602(推古10)年 29歳
 ・6月−聖徳太子の弟の来目皇子が新羅征討軍の将軍として2万5千の兵を連れて九州に行くが,そこで病死してしまう。(蘇我氏の命によって暗殺されたという説もある)次に当麻皇子を将軍にして九州に送ったが,皇子の妃が急死したため,将軍自ら奈良の都に戻ってしまった。司令官がいなくなって新羅征討は中止せざるをえなくなった。

博多湾
603(推古11)年 30歳
 ・小墾田宮に遷都する。

小墾田宮
  
朝庭
庁−まつりごとどの 閣議を行う
朝庭−ちょうてい 儀式を行う

左上 雷丘(いかずちのおか)
雷丘東方遺跡から「小治田宮」と墨書のある土器が出土した
 ・12月−冠位十二階を制定する。()
  ☆官位は豪族の中から才能や功績によって個人に与えられるとし,下の表のように十二階定めた。役人は位階に相当する色の付いた冠を着けた。これによって,豪族の支配する世の中から公の官僚が政治を行う国にしようとした。これが中央集権国家建設の基礎となる。第1回遣隋使の失敗が倭国が国として成立していないことによるものと考えた聖徳太子は,多くの改革を始めた。
大徳
だいとく
小徳
大仁
だいじん
小仁
大礼
だいらい
小礼
大信
だいしん
小信
大義
だいぎ
小義
大智
だいち
小智
           

 ・新羅から弥勒菩薩像が献上された。
  ☆聖徳太子は秦氏(はたうじ−新羅系渡来人)の長,秦河勝(はたのかわかつ)に授けた。河勝は寺を建てそれを安置した。これが京都市太秦にある広隆寺の半跏思惟(はんかしい)の弥勒菩薩像(みろくぼさつぞう)と言われている。
広隆寺(京都市太秦) 秦楽寺(奈良県田原本町)

604(推古12)年 31歳
 ・4月−憲法十七条(けんぽうじゅうしちじょう)を制定する(下部も参照)

憲法十七条(簡約)
 
 1 和を大切にし,人と争わないように心がけなさい。
 2 あつく三宝(さんぽう)を敬え。三宝とは,仏・法・僧であり,仏教を信仰しなさい。
 3 天皇の命令には必ず従いなさい。
 4 すべての役人は礼を守りなさい。礼は民を治め官人の序列をも維持するもの。
 5 私利私欲を捨てて,民の訴えを公正に裁きなさい。
 6 善と悪をよくみきわめて対応しなさい。
 7 自分の任務をきちんと行い,他の職務に干渉してはいけない。
 8 役人は朝早く出勤し,夜遅くまで働きなさい。
 9 善悪は義の根本である信(誠実さ)のあるなしに関係している。心がなければ何事も成功しない。
10 人それぞれに意見が違うのはあたりまえなので,違うからといってむやみに怒ってはいけない。
11 部下の仕事のできをきちんと見極めて賞罰の判断をしなさい。
12 地方の役人は民から税をとってはいけない。
13 役人は同僚や上司の仕事の内容も知っていなさい。
14 役人は他人をうらんだりねたんだりしてはいけない。
15 役人は私情を捨てて,正しく職務を遂行しなさい。
16 民を労役に使うときは,時節をよく考えなさい。農業の忙しい時期に招集してはならない。
17 大事なことは一人で決めず,多くの人々とよく議論してから決めなさい。

  ☆豪族たちに,国家の官人(役人)としての心構えを示した。天皇の命に従い,仏教をうやまうことを大切にした。日本で初めて「憲法」という言葉が使われた。これによって理想的な国家作りを行った。

橘寺にある黒駒の像−甲斐の国から献上され聖徳太子の足となった。
605(推古13)年 32歳
 ・天皇が飛鳥大仏を作らせる。
 ・聖徳太子が斑鳩宮に移る。  

太子が休んだ腰掛石
(白山神社)

太子道

太子が愛飲した井戸水
(杵築神社)
奈良県磯城郡三宅町屏風に残る聖徳太子の史跡
太子道は筋違(すじかい)道とも呼ばれ,愛馬の黒駒に乗り,聖徳太子が従者「調子丸」をしたがえて斑鳩-飛鳥間片道約20qの道を往復した道
606(推古14)年 33歳
 ・聖徳太子が天皇に勝鬘経(しょうまんぎょう)を講義する。
 ・4月−鞍作止利,丈六の金銅仏を法興寺(飛鳥寺)に安置する。

三光石(橘寺)−聖徳太子が勝鬘経を講じていると日・月・星の光を放った
607(推古15)年 34歳
 ・仏法興隆を願って法隆寺(斑鳩寺)が建立される。

法隆寺(奈良県生駒郡斑鳩町)
当時は斑鳩寺(いかるがでら)と呼ばれていた。現存する世界最古の木造建築物となっている。建築材は桧(ひのき)で樹齢1000年以上の桧が使われた。礎石の上に柱が建てられている。五重塔の高さは31.8m。

法隆寺式伽藍配置
世界最古の木造建築用明天皇が病気の平癒を祈って寺と仏像を造ることを誓願され,その遺志を継いで推古天皇と聖徳太子が607年に造られた。
 ・小野妹子(おののいもこ)らの第2回遣隋使が国書を皇帝煬帝(ようだい)に奉呈する。
 ☆「日出づる処の天子,書を日没する処の天子に致す 恙無(つつがな)きや」(「隋書倭国伝」による)と記し,煬帝を怒らした。なぜなら隋は中華思想によって,隋だけが国であるという考えを持っていた。だから倭国を含めて周辺の地域を国とは認めていない。天子とは煬帝のことであり,この世に天子は一人しかいない。朝鮮は中国に「朝鮮国王」という称号をもらって,臣下的な扱いをうけていたほどである。そんな中へ隋と対等な外交を目指す倭国からの使者が無礼な文を届けたことになる。煬帝は倭国の無礼な使者には二度と取り次がぬよう命令した。しかし,隋は高句麗との戦争がせまっているときであり,倭国を敵にしては行けないと考えた。また,小野妹子は官位を持った正式な使者であり,倭国が国として成立していることを知ったため,倭国との外交を結ぶことにした。そして,翌年,裴世清(はいせいせい)を使者として送った。隋は倭国を国家として認めた。
608(推古16)年 35歳
 ・4月−小野妹子が隋からの使者,裴世清(はいせいせい)とともに帰国する。小野妹子は再び隋へ遣わされる。
海柘榴市(海石榴市)つばいち−奈良県桜井市金屋の大和川(泊瀬川)を飾る壁画 飾り馬の像
隋の使者裴世清や12人の随行者たちは,難波津(なにわのつ−大阪府)で飾り船30艘で迎えられた。さらに,大和川をさかのぼってきた一行を天皇の命により,阿倍比羅夫(あべのひらふ)が海石榴市(つばいち)で飾り馬75頭を引き連れて盛大に出迎えた。当時,海石榴市は山辺の道や磐余の道などの主要な道が交差し,大和川の水運を利用するための港もあった。また,各地の産物も集まり,大規模な市もあった。海柘榴市は飛鳥京や藤原京への玄関でもあった。

小野妹子墓(大阪府南河内郡太子町)
609(推古17)年 36歳
 ・鞍作止利,飛鳥寺(安居院)の釈迦如来坐像が完成する。

飛鳥大仏(止利仏師−鞍作止利が作った)
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611(推古19)年 38歳
 ・聖徳太子,「勝鬘経義疏」を著す。
 ・菟田野(奈良県宇陀郡)へ薬猟(くすりかり)に出かける。
612(推古20)年 39歳
 『日本書紀』に百済から帰化した味摩之(みまし)という人物についての記述がある。この人は,伎楽を伝えた人で,現在の桜井市に住んでいた。味摩之は「呉で学んで伎楽の舞を習得した。」と聖徳太子に申し上げたので,太子は桜井で少年を集めてこの伎楽の舞を習わせた。真野首弟子(まののおびとでし)や新漢済文(いまきのあやひとさいもん)の二人が習って,舞を伝えたと書かれている。伎楽はチベットやインド発祥の仮面劇で,中国に伝わったものである。
 桜井市にある土舞台と呼ばれる場所が我が国初の国立演劇研究所と国立の劇場が置かれた所。「芸能発祥の地」となっている。

613(推古21)年 40歳
 ・聖徳太子,「維摩経義疏(ゆいまぎょうぎしょ)」を著す。
615(推古23)年 42歳
 ・聖徳太子,「法華経義疏」を著す。
620(推古28)年 47歳
 ・蘇我馬子と協議して,国記・天皇記などを記録する。

土舞台(桜井公園)

土舞台石碑
奈良県桜井市谷

中宮寺
聖徳太子夫人の橘大郎女(たちばなのおおいらつめ)が刺繍した「天寿国繍帳」が保存されている
 
成福寺(飽波葦垣(あくなみあしがき)宮伝承地) 上宮遺跡公園 (奈良県生駒郡斑鳩町)
晩年,聖徳太子は膳大郎女(かしわでのおおいらつめ)とともに飽波葦垣宮に住んだ。
622(推古30)年 49歳
 ・2月22日,聖徳太子が斑鳩宮で没する。
 ・磯長(しなが)陵に葬られる。
叡福寺及び聖徳太子磯長陵(しながのみささぎ)大阪府南河内郡太子町
諸国を巡察しているとき,この地で五色の光を見て霊地と感じた太子はここに横穴式の石室を造らせていた。

聖徳太子が建てたとされる7寺
法隆寺 奈良県斑鳩町
四天王寺 大阪市天王寺区
中宮寺 奈良県斑鳩町
橘寺 奈良県高市郡明日香村
広隆寺 京都市右京区
法起寺 奈良県斑鳩町
和田廃寺 奈良県橿原市和田町

十七条憲法
推古天皇十二年夏四月丙寅朔。戊辰。

一曰。以和為貴。無忤為宗。人皆有党。亦少達者。是以或不順君父。乍違于隣里。然上和下睦。諧於論事。則事理自通。何事不成。


二曰。篤敬三宝。三宝者仏法僧也。則四生終帰。万国之極宗。何世何人非貴是法。人鮮尤悪。能教従之。其不帰三宝。何以直枉。


三曰。承詔必謹。君則天之。臣則地之。天覆地載。四時順行。方気得通。地欲覆天。則致壊耳。是以君言臣承。上行下靡。故承詔必慎。不謹自敗。


四曰。群卿百寮。以礼為本。其治民之本。要在乎礼。上不礼而下非斉。下無礼以必有罪。是以君臣有礼。位次不乱。百姓有礼。国家自治。


五曰。絶饗棄欲。明弁訴訟。其百姓之訟。一日千事。一日尚爾。況乎累歳。須治訟者。得利為常。見賄聴●(ゴンベン+「獻」)。便有財之訟。如石投水。乏者之訟。似水投石。是以貧民。則不知所由。臣道亦於焉闕。


六曰。懲悪勧善。古之良典。是以無惹人善。見悪必匡。其諂詐者。則為覆国家之利器。為絶人民之鋒剣。亦侫媚者。対上則好説下過。逢下則誹謗上失。其如此人。皆无忠於君。無仁於民。是大乱之本也。


七曰。人各有任掌。宜不濫。其賢哲任官。頌音則起。奸者有官。禍乱則繁。世少生知。尅念作聖。事無大少。得人必治。時無急緩。遇賢自寛。因此国家永久。社稷無危。故古聖王。為官以求人。不求官。


八曰。群卿百寮。早朝晏退。公事靡●(「鹽」の右上の「鹵」の代りに「古」)。終日難尽。是以遅朝不逮于急。早退必事不尽。


九曰。信是義本。毎事有信。其善悪成敗。要在于信。君臣共信。何事不成。君臣無信。万事悉敗。


十曰。絶忿棄瞋。不怒人違。人皆有心。心各有執。彼是則我非。我是則彼非。我必非聖。彼必非愚。共是凡夫耳。是非之理。誰能可定。相共賢愚。如鐶无端。是以彼人雖瞋。還恐我失。我独雖得。従衆同挙。


十一曰。明察功過。賞罰必当。日者賞不在功。罰不在罰。執事群卿。宜明賞罰。


十二曰。国司国造。勿歛百姓。国非二君。民無両主。率土兆民。以王為主。所任官司。皆是王臣。何敢与公賦歛百姓。


十三曰。諸任官者。同知職掌。或知職掌。或病或使。有闕於事。然得知之日。和如曾識。其以非与聞。勿防公務。


十四曰。群卿百寮。無有嫉妬。我既嫉人。人亦嫉我。嫉妬之患。不知其極。所以智勝於己則不悦。才優於己則嫉妬。是以五百之。乃令遇賢。千載以難待一聖。其不得聖賢。何以治国。


十五曰。背私向公。是臣之道矣。凡夫人有私必有恨。有憾必非同。非同則以私妨公。憾起則違制害法。故初章云。上下和諧。其亦是情歟。


十六曰。使民以時。古之良典。故冬月有間。以可使民。従春至秋。農桑之節。不可使民。其不農何食。不桑何服。


十七曰。夫事不可断独。必与衆宜論。少事是軽。不可必衆。唯逮論大事。若疑有失。故与衆相弁。辞則得理。


(返り点・送り仮名省略)
(明治44年版刊本による)


(漢字変換できない文字について●( )で説明)
一に曰はく,和を以て貴(たつと)しと為し,忤(さから)ふこと無きを宗と為す。人皆党(たむら)有りて,亦達者少し。是を以て或は君父に順(したが)はずして,乍(たちま)ち隣里に違(たが)ふ。然れども上和(やはら)ぎ下睦(むつ)びて,事を論(あげつら)ふに諧(ととの)へば,則ち事理自ら通ず,何事か成らざらむ。
 二に曰はく,篤(あつ)く三宝(さんぼう)を敬へ。三宝は仏法僧なり。則ち四生(ししやう。胎生,卵生,湿生,化生の称,凡べての生物をいふ也)の終帰(しうき),万国の極宗(きょくそう)なり。何(いづれ)の世,何(いづれ)の人か是(こ)の法(のり)を貴ばざる。人尤(はなは)だ悪しきもの鮮(すくな)し。能く教ふるをもて従ふ。其れ三宝に帰せずんば,何を以てか枉(まが)れるを直さむ。
 三に曰はく。詔(みことのり)を承(う)けては必ず謹め。君をば天(あめ)とす。臣(やつこら)をば地(つち)とす。天覆(おほ)ひ地載す。四時順(よ)り行き,方気(ほうき)通(かよ)ふを得。地天を覆(くつがへ)さんと欲するときは,則ち壊(やぶれ)を致さむのみ。是を以て君言(のたま)ふときは臣承(うけたまは)る。上行へば下靡(なび)く。故に詔を承けては必ず慎め。謹まざれば自らに敗れむ。
 四に曰はく。群卿(まちぎみたち)百寮(つかさづかさ),礼を以て本と為(せ)よ。其れ民を治むる本は,要は礼に在り。上礼無きときは下斉(ととのほ)らず。下礼無きときは以て必ず罪有り。是を以て君臣礼有るときは,位の次(つぎて)乱れず。百姓礼有るときは,国家(あめのした)自ら治まる。
 五に曰く。饗(あぢはひのむさぼり)を絶ち,欲を棄て,明に訴訟(うつたへ)を弁へよ。其れ百姓の訟(うつたへ)は一日に千事あり。一日すら尚爾(しか)り。況んや歳を累(かさ)ぬるをや。須らく訟を治むべき者,利を得て常と為し,賄(まひなひ)を見て●(ことわり)を聴(ゆる)さば,便(すなは)ち財(たから)有るものの訟は,石をもて水に投ぐるが如し。乏しき者(ひと)の訟は,水をもて石に投ぐるに似たり。是を以て貧しき民,則ち所由(よるところ)を知らず。臣道亦焉(ここ)に於て闕(か)けむ。
 六に曰く。悪を懲(こら)し善を勧むるは,古の良(よ)き典(のり)なり。是を以て人の善を慝(かく)すこと無く,悪を見ては必ず匡(ただ)せ。若し諂(へつら)ひ詐(いつは)る者は,則ち国家を覆すの利器たり。人民を絶つ鋒剣たり。亦侫媚者(かたましくこぶるもの)は,上に対(むか)ひては則ち好みて下の過を説き,下に逢ては則ち上の失(あやまち)を誹謗(そし)る。其れ如此(これら)の人は,皆君に忠(いさをしきこと)无(な)く民に仁(めぐみ)無し。是れ大きなる乱の本なり。
 七に曰はく,人各任掌(よさしつかさど)ること有り。宜しく濫(みだ)れざるべし。其れ賢哲官に任(よさ)すときは,頌音(ほむるこゑ)則ち起り,奸者官を有(たも)つときは,禍乱則ち繁し。世に生れながら知ること少けれども,尅(よ)く念(おも)ひて聖を作(な)せ。事大小と無く,人を得て必ず治む。時急緩と無く,賢に遇ひて自(おのづか)ら寛(ゆたか)なり。此に因て国家永久,社稷(しやしよく)危きこと無し。故(か)れ古の聖王,官の為に以て人を求む,人の為に官を求めたまはず。
 八に曰はく,群卿百寮,早く朝(まゐ)り晏(おそ)く退(まか)でよ。公事監(いとま)靡(な)く,終日(ひねもす)にも尽し難し。是を以て遅く朝(まゐ)れば急に逮(およ)ばず。早く退(まか)れば必ず事尽(つく)さず。
 九に曰はく,信は是れ義の本なり。事毎(ごと)に信有れ。若し善悪成敗,要は信に在り。君臣共に信あるときは何事か成らざらむ。
 十に曰はく。忿(いかり)を絶(た)ち瞋(いかり)を棄て,人の違ふことを怒らざれ。人皆心有り。心各執ること有り。彼是(ぜ)なれば吾は非なり,我是なれば則ち彼非なり。我必ずしも聖に非ず。彼必ずしも愚に非ず。共に是れ凡夫(ぼんぶ)のみ。是非の理,誰か能く定む可き。相共に賢愚,鐶(みみがね)の端无(な)きが如し。是を以て彼の人は瞋(いか)ると雖も,還(かへつ)て我が失(あやまち)を恐る。我独り得たりと雖も,衆に従ひて同く挙(おこな)へ。
 十一に曰はく,功過を明察(あきらか)にして,賞罰必ず当てよ。日者(このごろ),賞功に在らず,罰罰(つみ)に在らず。事を執れる群卿,宜しく賞罰を明にすべし。
 十二に曰はく,国司(みこともち)国造(くにのみやつこ),百姓に歛(をさめと)ること勿れ,国に二君(ふたりのきみ)非(な)く,民に両主(ふたりのぬし)無し,率土(そつと)の兆民,王(きみ)を以て主(しゆ)と為す。所任官司(よさせるつかさみこともち)は皆是れ王臣なり。何ぞ敢て公(おほやけ)と与(とも)に百姓に賦斂(をさめと)らむ。
 十三に曰はく,諸(もろもろ)の任官者(よさせるつかさびと),同じく職掌(つかさごと)を知れ。或は病(やまひ)し或は使(つかひ)して,事に闕(おこた)ることあり。然れども知るを得ての日には,和(あまな)ふこと曾(さき)より識(し)るが如くせよ。其れ与(あづか)り聞(き)くに非ざるを以て,公務(まつりごと)を防(さまた)ぐること勿れ。
 十四に曰はく,群卿百寮,嫉(そね)み妬(ねた)むこと有る無(なか)れ。我既に人を嫉めば,人亦我を嫉む。嫉妬(しつと)の患,其の極りを知らず。所以(ゆゑ)に智己れに勝(まさ)れば,則ち悦ばず。才己れに優(まさ)れば,則ち嫉妬(ねた)む。是を以て五百(いほとせ)にして乃ち賢(さかしびと)に遇はしむれども,千載(ちとせ)にして以て一聖を待つこと難し。其れ聖賢を得ざれば,何を以てか国を治めむ。
 十五に曰はく,私を背いて公に向くは,是れ臣の道なり。凡そ夫人(ひとびと)私有れば必ず恨(うらみ)有り,憾(うらみ)有れば必ず同(ととのほ)らず。同らざれば則ち私を以て公を妨ぐ。憾(うらみ)起れば則ち制(ことわり)に違ひ法(のり)を害(やぶ)る。故に初の章(くだり)に云へり,上下和諧(あまなひととのほ)れと。其れ亦是(こ)の情(こころ)なる歟(かな)。
 十六に曰はく,民を使ふに時を以てするは古(いにしへ)の良典(よきのり)なり。故(か)れ冬の月には間(いとま)有り,以て民を使ふ可し。春従(よ)り秋に至つては,農桑(たつくりこがひ)の節(とき)なり,民を使ふ可らず。其れ農(たつく)らずば何を以てか食はむ。桑(こが)ひせずば何をか服(き)む。
 十七に曰はく,夫れ事は独り断(さだ)む可らず。必ず衆(もろもろ)と与(とも)に宜しく論(あげつら)ふべし。少事は是れ軽し,必ずしも衆(もろもろ)とす可らず。唯大事を論(あげつら)はんに逮(およ)びては,若し失(あやまち)有らんことを疑ふ。故に衆と与(とも)相弁(わきま)ふるときは,辞(こと)則ち理を得。

飯島忠夫・河野省三編『勤王文庫』第一篇(大日本明道館。大正八年六月十五日発行)による。

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* 飛鳥大仏及び聖徳太子像について飛鳥寺−安居院の画像使用許可済
*十七条憲法の原文及び書き下し文はJ−TEXT(日本文学学術的電子図書館)よりの転載(許可済)
*聖徳太子の姿としてよく知られている「聖徳太子・二王子像(唐本御影)」は法隆寺と宮内庁が所蔵していますが,共にホームページ上でのデジタル画像の公開について許可していません。
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