大津皇子と二上山


 二上山は金剛生駒紀泉国定公園に属し,奈良と大阪の境(奈良県葛城市,大阪府太子町 )にあり,雄岳(517m)と雌岳(474.2m)の二つの山からなる。「ふたかみやま」または「にじょうざん」と呼ばれている。約2000万年に大噴火を起こした火山で,サヌカイト,凝灰岩,金剛砂などを産出する。 山頂には天武天皇の子で謀反の疑いをかけられ自害させられた大津皇子の墓がある。

 大津皇子は天武天皇の第3皇子で,母は天智天皇の長女の大田皇女(おおたのひめみこ)。大田皇女は持統天皇の姉にあたる。

 斉明天皇は唐や新羅に攻め込まれている百済の救済のために朝鮮半島に兵を出すことを決意した。661(斉明7)年1月6日,天皇自らが中大兄皇子(天智天皇)と大海人皇子(天武天皇)らを伴い,九州北部に向け難波を出た。船で瀬戸内海を抜け,那大津(なのおおつ:現在の福岡県博多港)に到着し,磐瀬行宮(いわせのかりみや:長津宮ながつのみや福岡市)に入った。662年,大海人皇子と鵜野皇女の間に草壁皇子が誕生し,663年に那大津にて,大海人皇子と大田皇女の間に大津皇子が誕生した。生まれた場所の名からこの皇子を大津皇子と名付けられた。「大津」は天智天皇が後に都をおいた近江大津宮(滋賀県大津)から付けられた名だという説もある。
 大群を率いて九州入りしたが,母斉明天皇が病死し,朝鮮半島での激しい戦で倭軍も敗退した(白村江の戦)。中大兄皇子はすぐさま都に戻って国防を強化し た。667年には飛鳥から大津に都を遷都し,668年1月天智天皇となった。

 天智天皇は大津宮で幼い大津皇子をたいそうかわいがったという。
高市皇子,草壁皇子の次に生まれた大津皇子は大海人皇子にとっても大切な我が子であった。しかし,天智天皇が後継者として子の大友皇子にしようと考えたとき,大海人皇子は高市皇子と大津皇子を大津宮に残して吉野に向かう。言わばこの二人は大海人皇子が朝廷に反抗しないための人質のようなものであった。

 672年,大海人皇子は大友皇子に対して戦を挑み,壬申の乱が起こった。高市皇子19歳,大津皇子10歳の時であった。大津宮にいた二人の皇子は大海人皇子の使いの者によって別々に宮を脱出,大津皇子は朝明郡(あさけのこおり)で父大海人皇子と再会した。二度と会うことはできぬと思っていた二人であったので,無事再会した喜びは大変大きかったことであろう。壬申の乱は全軍の指揮を任された高市皇子や勇敢な豪族たちの活躍によって大海人皇子軍が勝利し,都は再び飛鳥の地にもどった。そして,大海人皇子は飛鳥浄御原宮(あすかきよみはらのみや)で天武天皇として即位した。

 天武天皇は高市皇子,大津皇子,草壁皇子と天智天皇の子の川嶋皇子,施基(しき)皇子,皇后の鵜野讃良皇女(うののさららのひめみこ:後の持統天皇)らを連れて吉野へ行幸した。天皇は6人の皇子たちに,戦いをせぬよう力を合わせて世の中を治めることを約束させた。そして,皇子等を抱きしめて,「母は違うが同じ母の子として慈しむ」と言った。このようにして,皇位継承のための争いを二度と起こさないように誓約させた。
 大津皇子は大海人皇子の子であったが,大津宮では天智天皇に愛されて育った。風格もよく,言語明朗,漢詩文を好むなど学問好きであった。成長するに従い,才能が開花していく。特に文筆に秀でたものがあったという。

 683年2月1日,大津皇子が21歳になった時,初めて「朝政(ちょうせい:みかどのまつりごと)を聴こしめす」と日本書紀にあることから,天武天皇政権の中心的な立場で政治の指示を出す役割を持っていた。
 

大津皇子の家があった所
(春日神社:奈良県桜井市戒重)

春日神社 境内
 第三十代敏達天皇は百済宮のあと,新たに訳語田(おさだ)に宮をつくった。これを幸王宮(さきたまのみや)という。大津皇子の家はこの宮がおかれた訳語田にあった。
 
 しかし,天武天皇が崩御した翌月の686年10月2日,川島皇子の密告によって謀反の疑いをかけられ,皇子の従者30余人とともに捕えられてしまう。そして,翌3日に訳語田の家で自害された。24歳の若さであった。これは鵜野讃良皇女が自分の実の子の草壁皇子を次の天皇にするためにはかったことだとも言われるが不明。大津皇子の妃の山辺皇女は裸足で髪をふり乱して駆けつけ同日殉死した。
 大津皇子に従って行動していた従者の多くは罪なしとして解放され,数人のみが伊豆や飛騨の国に流された。このことからも大津皇子一人を失脚させるための何らかの力が裏で動いていたと推測する。


大津皇子が育った大津宮近く
近江神宮には天智天皇が祀られている

吉備池が磐余池とも言われるが明らかではない
実際は,ここより南にあったとされる
 日本最古の漢詩集「懐風藻」には大津皇子の辞世の漢詩「五言臨終一絶」が収められている。

金鳥臨西舎(太陽が西に沈む時)
鼓声催短命(時を告げる大鼓の音が短命を催す)
泉路無賓主(死出の旅に客はいない)
此夕離家向(夕刻に家を出てどこに向かうのか)

訳語田家で死期を悟った皇子が詠んだ。
 万葉集には大津皇子の辞世として次の歌がある。磐余(いわれ)の池の堤にて皇子が涙を流して作った歌とされる。

百傳 磐余池尓 鳴鴨乎 今日耳見哉 雲隱去牟

(藤原宮朱鳥元年冬十月)

「ももづたふ 磐余の池に 鳴く鴨を 今日のみ見てや 雲隠りなむ」
(磐余の池に鳴く鴨を見ることは今日までか。私は死んでいくんであろうな。)

吉備池にたつ大津皇子の歌碑

飛鳥歴史公園からの夕景
 大津皇子は二上山に葬られた。
 伊勢神宮の斎宮(さいくう:いつきのみや)であった大来(おおく)皇女は同母の弟が罪を犯したことから任を解かれ都に戻っていた。
 姉の大来皇女の歌

うつそみの人なる我や明日よりは 二上山を弟と我が見む
二上山
 二上山登山口からすぐ,石切場は古墳の石棺や寺院建築用の石材を採った跡。当時は石棺に凝灰岩が使われており,高松塚古墳もここの石を使っている。石を切り取るときに使われたノミの跡が今も残る。岩屋や鹿谷寺もこのような利用して造られたもので,二上山にはこのような石切場が他にもある。
石切場

岩屋の千年杉
岩屋の千年杉

根回り約8m,樹齢約600年の杉の大木。平成10年9月の台風で倒れて一部が残る。
 岩屋は奈良時代の石窟寺院跡で,凝灰岩を削って造られた間口7m,奥行き5m,高さ6mの石窟。
 三重の石塔が残り,昭和23年に国の史跡に指定された。

岩屋

岩屋にある三重石塔
 當麻寺(奈良県葛城市當麻)の本尊であり,国宝の「當麻曼荼羅(たいままんだら)」は,中将姫が岩屋で織ったとする言い伝えがある。
 奈良時代,藤原不比等の孫にあたる藤原豊成の娘であった中将姫(ちゅうじょうひめ)は継母に嫌われ命まで奪われようとしていたが,それに負けることなく写経や読経を続けていた。千巻の写経を終えた16歳の時,中将姫は二上山に沈む夕日から阿弥陀如来の姿を見た。當麻寺を訪れた姫はここで尼僧となる。そして,極楽浄土の光景を五色の糸によって織り上げた。これが當麻曼荼羅(たいままんだら)であり,本尊となっている。
山頂の万葉歌碑


大坂を わが越え来れば

二上に黄葉(もみじば)流れる 時雨ふりつつ


万葉歌碑

雄岳山頂
 雄岳山頂に二上山城跡があり,楠正成が築城したとする説がある。現在のものは戦国時代に河内の守護代だった木沢長政によって造られた。
 雄岳山頂には「岳の権現」と呼ばれる葛木坐二上神社
(かつらぎにいますふたかみのやしろ)がある。

祭神
 豊布都霊神(建御雷神)
大国御魂神

葛木坐二上神社(雄岳山頂)

大津皇子 墓
雄岳山頂近くにある古墳が大津皇子の墓      
書家榊莫山の歌碑

二上山をイメージした2個の石に彫られた歌

「トロイデ火山ハ静マリテ」

「女岳男岳ヲ拝ム里 尼上嶽ト誰カ言ウ」

歌碑

鹿谷寺(ろくたんじ)跡
 雌岳にあり,凝灰岩の石切場跡に造られた奈良時代の石窟寺院跡。十三重多層塔と石窟を備えた奈良時代の石窟寺院。国の史跡に指定されている。この周辺から和同開珎が出土している。
高さ約5mの十三重石塔と幅約3mの石窟
石窟正面に如来座像三体が線彫されている。

雌岳山頂よりの飛鳥方面の眺め
山頂より大和三山が見える。
夕景の二上山を飛鳥歴史公園から見る
二上山 夕日
もう一つの 大津皇子の墓 
鳥谷口古墳(奈良県當麻町大字染野字鳥谷口)
1辺が約7.6m,高さ約2.1mの方墳。
 墳丘は土を突き固め,その層を重ねてつくった版築とよばれる工法で造られている。墳丘の裾には人頭大の石が敷き詰められていたらしい。
横口式石槨(せっかく)
二上山産出の凝灰岩で造られているが,他の古墳のものに比べて荒削りな物に見える。急ぎ造られた物か,寄せ集めの物か,真意は不明。
 石槨の開口部は南側石の東側にあり,墳丘や石槨の前面から見つかった須恵器や土師器によって,古墳が7世紀末に築造されたと推測されている。山の南斜面を利用して造られているのはこの頃造られた他の古墳にも見られ,南に開口する石室の大きさもその入り口も小さいことは,これが急ぎ造られた改葬墓の可能性もあると考えられている。そこでこの古墳こそが大津皇子の墓ではないかとされている。皇子とはいえ,朝廷に対して謀反の罪で死罪となった者を山頂に葬ることが不自然ではないかという疑問はあった。1983年に土砂の採掘をしていてこの古墳が発見され,山頂の大津皇子墓の真偽が話題になった。
大津皇子の祟り?

奈良 薬師寺
 法相宗(ほっそうしゅう)大本山薬師寺は,680年,皇后(鵜野讃良皇女,後の持統天皇)の病気平癒を祈願して天武天皇により発願された寺で,持統天皇の時代に本尊の開眼が行われた。そして,文武天皇の時代に飛鳥で完成した。710年の平城遷都に伴って,718年現在の地に移転された。
 大津皇子が亡くなって3年後,持統天皇の実子草壁皇子が急逝した。時期天皇となるはずだった草壁皇子の突然の不幸は母に大津皇子の祟りと恐れさせたのかもしれない。そのため,大津皇子の再葬を行っている。693年,持統天皇は草壁皇子の子の軽皇子(かるのみこ)を文武天皇として即位させた。しかし,25歳の若さで崩御された。これも謀反の罪で自害させられた大津皇子の祟りと恐れられた。
 薬師寺には大津皇子を祭神とする若宮社がある。

薬師寺 若宮社

薬師寺 龍王社
 古図を見ると薬師寺の西塔より西にあることから,摂社龍王社はそこから現在地に移転したと考えられる。薬師寺龍王社には大津皇子の霊を鎮魂するため室町時代に造られたとされる「伝大津皇子坐像」が安置されていた。薬師寺の秘仏として現存するが,特別展以外での一般公開はされていない。

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